生じてしまったら、個別具体的なことを、論じることなく、かならず、「責任がある」と決まっているのである。なんでなら、「生じたから」だ。
ある日、毒ガスをまかれて、下半身不随になったら、毒ガスをまかれたほうにも責任があるということになってしまう。ある出来事があって、その結果、障害を背負ったとしたら、障害を背負った方にも、責任があるということになってしまう。全部、「結果論」だ。生じたあとに、「生じたのだから、理由がある」「生じたのだから(その人にも)責任がある」と言っている。
6)障害を背負ったとしても、どんな出来事があったにしろ、それは、あなたが望んでいたから起こったことだ
「霊界」を持ち出すか、持ち出さないかの違いがあるが、こういうふうに考える人がいる。その人が、自分の世界に生じたことについて話しているのならいい。一般論として、すべての場合に成り立つこととして、話すから、問題が生じる。自分の分だけ、話していればいい。
まあ、無意識とか、出してくるんだろうけど、傲慢だ。「霊界」を出すか、「無意識」を出すか、その違いはあるのだけど、言い方は同じだ。そして、原理も同じだ。
結果が出たあとに、「それは、あなたが、無意識的に望んでいたからそうなったのだ」という。当然、この世で生じなかったことには、それは成り立たない。「だから」生じなかったとでも言いたいのだろう。けど、これは、結果論だ。結果論的な世界観を(貴方自身が)持つのは、かまわないが、それは、あなたが持っている結果論的な世界観から導き出された、結論なので、人には「真実」として言わないほうが良いのではないかと思う。何度も言うけど、本人が、自分の世界に生じたことに関して、「そう思う」のは勝手だ。
7)苦しいことは、学びだ。人間はそれを学ぶために、生まれてきた。
8)すべての出来事は、「たましいの学び」のために、必要なことだ。
こういうことばも、言っている方は、いいことを言っているような気分になるのかもしれないけど、犯罪被害者などを平気で傷つけている言葉だと思う。「一般論」としていっているので、「すべて」「例外なく」そうだと言っていることに、たぶん、言っている本人は、気がついていないのではないかと思う。
自分がなんらかの犯罪被害者で、自分が背負った障害について、どう考えるかは問題ではない。ようするに、自分が背負った障害は、自分の学びのためにあると考えてもいい。自分の分だ、そういうふうに考えるのはいい。しかし、「一般論」として言えば、ほかの人の人生そのものにも言及しているのと同じなので、ほかの人の人生についても言及しているという自覚は持った方がいい。事情も知らない人に、勝手に決めつけられて、不愉快な思いをする人がかならず出てくる。まあ、本に書いたりブログに書いたりするのは、自由だ。しかし、個別具体的な人に対して、そういうふうに言う場合は、本当に気をつけたほうがいいと思う。ただが、掲示板でそういうことをいう人がいる。たいていそういう人は、わかってない。なにがわかってないかというと、自分が言っていることがわかってない。本当にはわかってない。だから、掲示板などで、そういうことをいう人は(具体的な個人対してそういうことをいう人は)、実際に自分が困った立場になると、ぎゃーぎゃーわめきだす。本当に、そいつに責任があることでも、人のせいにして怒り狂う。病気になったらなったで、「どうして、自分がこんな病気にならなければならないのか」となげく。
自分が他人に言った言葉「すべての出来事は、「たましいの学び」のために、必要なことだ」ということを忘れてしまったのだろうか。俺は、そんなひどいことは、言わないけど、あんたは、他の人が苦しんでいる時に、そういう言葉を投げかけたではないか。あれはなんだったのか?と言いたくなる。
繰り返すけど、僕は「すべての出来事は、「たましいの学び」のために、必要なことだ」とは考えないから、他の人が病気の時、他の人が苦しんでいる時、そんな言葉を投げかけたりしない。
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事柄が生じた原因と、それにどう対処していくかは、別のことだ。
これの区別がついてない人がいるのかも知れない。