たとえば、ある企業が、有機水銀を海に流したとするだろ。それで、有機水銀を取り込んだ魚を食べた人がいるとするだろ。その魚を食べた人が、神経をやられて、寝たきりの生活になったとするだろ。その場合、魚を食べて寝たきりの生活になった人が、企業に対して、愛情を感じるかということなのだ。愛情なんて感じないだろ。憎しみだけだろ。「どうしてくれるんだ」という気持ちだけだろ。けど、それが、親と子、ということになると、すぐに、愛情という話が出てくる。
「どうしてくれるんだ」とこだわっているのは、依存心からじゃないだろ。「人は、思い通りに動かない。だから、人にはなにも期待しない」などと涼しい顔をしていられるだろうか? そりゃ、障害が残らないならいい。けど、障害が残ったらどうだ? その障害のせいで働けない。その障害のせいで、恋愛ができない。その障害のせいで結婚ができない。その障害のせいで、人並みの暮らしができない。ただ、苦しんで、寝そべっているだけ。なにも悪いことをしてないのに、自分だけそういう状態になったら、恨むだろ。
有機水銀で、動けなくなる人は、実際にいた。だから、その人一生はどうなってしまうんだというような疑問は、あった。僕はずっと、その人の一生はどうなってしまうんだろうと考えていた。で、その障害だって、有機水銀でその障害が生じたという確かな証拠がないと、証明できないんだぞ。原因不明の病気ということになってしまう。まあ、有機水銀で確かにそういう障害が生じるということが、確かめられたから、その問題はいいとしよう。けど、そういう、余地があるということは、覚えておけと言いたくなる。関連性を証明できなければ、言いがかりだと言われる余地がある。あるいは、はっきりしない病気であるなら、「気のせい」とか「自己責任」といわれる余地があるということを、覚えておけ。
有機水銀と障害との関連性が確かめられたから、寝そべっていたって、「だれだって、働くのは苦しい。けど、みんな、我慢して働いている。寝そべっているのは甘え。寝そべっているのは、怠け者だから。しゃきっとしろ」などと言われることは、ない。たぶんないだろう。けど、人によっては、……有機水銀と障害の関連性を認めていない人にとっては、寝そべっている人は、「甘えて、自分の人生を生きようとしていない人」なのである。これ、有機水銀を摂取したことによって生じる様々な障害については、「病気」だと認定されたからいいけど、「原因不明」のままだったら、どうだ? 「病気じゃないのに、そんなのはおかしい。シャキッとすれば、シャキッとできる。シャキッとできないのは甘え」と言われる可能性が出てくる。
まるまるXXXX病って、いまは、病気として認定されている病気があるんだけど、その病気は普通の健康診断では、チェックできない病気だ。けど、その病気にかかった人は、だるくてだるくしてしかたがないというような症状や、少し動くと疲れてしまうというような症状が出る。こういうばあいだって、「怠けている」「甘えだ」と言われる可能性が出てくる。「労働することの意味がわかってない」などと説教される余地が出てくる。病気として認定されていなければ、そういうふうに言われる可能性のほうが高い。可能性が高いというよりも、病気として認定されていなければ、……その病気だということが、わからなければ、完全に、そう言われる。けど、そう言われても、「だるい状態」「疲れやすい状態」は変わらない。そうすると、「生きがたい」という悩みが生じる。
まあ、「生きがたい」という悩みの話はいいよ。けど、俺が言いたいのは、「愛情とからめるな」という話だ。有機水銀の話に戻せば、やられた人は、企業の責任者に対しては、憎しみしかない。愛情なんてない。働けなくなったから、生活費を出せ」と言っても、「依存」の問題じゃない。俺は、企業は、ちゃんと賠償するべきだと思うよ。それから、かりに、生活費を出したとしても、その人の一生は返ってこないんだよ。だから、生活費を出せば、それで、いいという問題じゃない。それで、責任をとったという問題じゃない。……けど、その人一生というのは、返せない。もとに戻すことができない。だから、それに関しては、慰謝料を払うべきだと思うよ。もっとも、慰謝料をもらっても、「やられた人」がそれで、ゆるせるかどうかはべつの問題だ。はっきり言えば、慰謝料をもらったあとも恨んでいいと思う。けど、これが、「慰謝料をもらったのだから、恨むべきではない」というような、アホなことを言う奴がいる。
まあ、それに関しては、またべつの問題だからな。いいや、同じ問題か? けど、なんというのかな、水銀を海に流した企業の責任者が「親」、その結果障害を背負ってしまった人が「子」というようなことになると、たちまち、「愛情」という問題にすり替えようとする奴が出てくる。こいつらは、「憎しみ」「憎悪」があれば、その裏にはかならず、愛情があると言い張る。「親」と「子」という単語が出てくると、「憎悪」だけではなくて、「憎悪と愛情」の問題にしてしまう。
けど、実際には、そういうのがいる。だから、そういう場合は、「憎悪」を感じて当たり前なのである。「愛情」を感じなくて、当たり前なのである。ここのところがわからないやつがいる。そういう人は、たぶん、そういうふうに考えて納得したいことが、あるのだろうと思う。で、そういうふうに考えて納得したいのは、別に問題はない。自分のことであればな……。自分自身にだけ適応される考え方ならな……。けど、こういう人は、一般化して、例外なく「そうなのだ」と言いたがる。例外を認めない。「水銀を海に流した企業の責任者のような親」がいるということを認めない。全部、自分が理解したい、あるいは、納得したい文脈に合わせて、解釈しようとする。で、何回も言うけど、その解釈は、自分に対して行うならいいけど、他の人に対して行うなということだ。そうではないばあいがあるからだ。