大根と卵の味噌汁が飲みたくなったので、大根と卵の味噌汁をつくった。
ぼくは、もともと、器用なので、つくれないということはない。
ただ、いろいろなことがあって、エネルギー不足だと、そもそも、やる気がしない。
大根の皮をむくところを考えただけで「うへぇーー」となる。やりたくない気持ちになる。だから、めちゃくちゃにいやなことが、たくさん発生しなければ、そこそこできるのだ。
ところが、兄や父が、俺にとってめちゃくちゃにいやなことを、発生させる。発生させた。
これが、あとあとまで、響くことなのだ。けど、他人は、それを認めない。「そんなのはいいわけだ」と「すべては自己責任だ」と言って認めない。
いやーー。家族だと、不可避的に影響を受けることがあるんだよ。
どう考えても、兄貴や親父の責任で、俺の自己責任だとは言えないことが、発生するんだよ。
めちゃくちゃなことを言うな。
こういうやつらが、正しいことを言っているつもりなんだよな。こんなの、ほんとうに、相手の状態がわかっていないだけなのに、よく言うよ。
* * *
ようするに、体力があれば、普通のことはできる。
ところが、体力がないと「普通にできること」ができなくなる。そうなると、やばいのだ。たとえば、睡眠。
たとえば、食事。大根が体にいいとする。味噌も体にいいとする。卵も体にいいとする。大根と卵の味噌汁を飲むことは、体いいことだ。もちろん、食べすぎとか飲みすぎはよくない。
体力があれば、大根と卵の味噌汁を飲める。自分でつくって飲める。食べられる。ところが、体力がないと、大根と卵の味噌汁を飲めなくなる。
どうしても、料理ができない状態になると、食べ物の数が減る。とりあえず、食べ物の数が減るということが、健康に悪い影響を与えるとする。
そうなると、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が起点になって、「エネルギー不足→調理ができない→食べ物が悪くなる→エネルギー不足」という悪のサイクルができあがってしまうのだ。
エネルギーがなくなると、歯磨きも、やりにくくなる。どうしても、めんどうだと思って、省略したやり方になる。
虫歯菌がすでに、口腔内にいるとする。そうなると、虫歯になりやすい状態になる。フロスをやる余裕もなくなる。
とりあえず、歯磨きをしたり、フロスをしたり、風呂に入ったりすることを、体のメンテナンスと呼ぶことにする。
そうなると、きちがい兄貴のヘビメタ騒音が起点になって、「エネルギー不足→体のメンテナンスができなくなる→体調悪化→エネルギー不足」という悪のサイクルが完成してしまう。
ともかく、兄貴や親父の「ヨソのうちではありえないような、きちがい行為」が悪のサイクルをつくりだしてしまう。
* * *
とりあえず、責任というとを考えるのであれば、兄貴が意地なって、悪質な行為をしたなら、兄貴には、悪質な行為をしたという責任がしょうじる。親父が意地なって、悪質な行為をしたなら、親父には、悪質な行為をしたという責任がしょうじる。
行為の主に、責任がしょうじるのは、しかたがないことだ。
だって、行為の主なのだから。
ところが、自己責任論者は、俺が影響を受けたということの責任だけを追及するのである。兄貴に関する兄貴の行為の責任……そんなのは、自己責任論者は、問題にしない。ぜんぜん、問題だと思わない。どれだけでかい音で鳴ってたって、影響を受けずに、勉強することができる。
どれだけ長い時間、ものすごくでかい音で鳴っていたって、影響を受けずに生活することができる……というきちがい的な設定がある。こいつらの、頭のなかに、こういう非・現実的な設定がある。
こんな、きちがい的な設定をして、人をせめまくって「自分が正しい」と思っているのだ。こいつらが、「ものすごくでかい音で、長時間、騒音を鳴らされると、不可避的に影響を受ける」ということを理解することはない。
「なんだとおぉ」という態度になり「そんなのはあまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言って「影響を受けずに生活することはできない」ということを、認めない。
それなのに、こいつらは「人に親切にしましょう」「人のため、社会のために頑張りましょう」と言う。
こんなやつらばかりだったよ。
この世は、こんなやつらばかりだったよ。
まあ、ぼくの「経験の範囲」で言うと、そうなる。