「人に親切にすること」と「人に親切にすれば幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。
たとえば、ある人がいるとする。その人が不幸だとする。不幸感がある生活をしているとする。
その場合、不幸感を生み出すような出来事が消失しなければ、幸福になったような感じがしないのである。幸福ではないのである。
「人に親切にすれば幸福になる」ということは、不幸をもたらす出来事が消失することを、意味しているのである。
とりあえず、不幸をもたらす出来事が消失することを、不幸だと感じするすべての問題が解決することだとする。
そうすると、人に親切にしただけで、不幸だと感じるすべての問題が解決してしまうことになるのである。
ところが、実際にはそんなことはないのである。「不幸だと感じるすべての問題」が、だれかほかの人に、一度でも親切にしただけで、解決してしまうなんてことはないのだ。
親切にするかどうかというのも、二値だ。まず、人に親切にすることが、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果があるのかどうかということを考えると、人に親切にすることには、その人が不幸であると感じている問題を解決してしまう効果がないということがわかる。
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ところで、ここでいろいろと書いてきたように、だれかAがだれかBに親切にしたつもりでも、Bが、たしかにAから親切にしてもらったと思わなければ、AはBに親切にしたことにならないのである。
だれかの頭のなかに、人に親切にする行為のイメージがあるとする。それを、とりあえず、その人にとっての親切行為だとする。この親切行為をすれば、かならず、人に親切にしたことになるかというと、そうではないのである。
いつでも、親切行為として成り立つ、理想的な親切行為があるような前提でものを言っているけど、ほんとうは、ちがうのである。
絶対に人に親切にしたことになる「親切行為」なんてものは、この世に存在しない。
ところが、「人に親切にするつもりで、なんらかの行為をすれば、それは、人に親切にしたことになる」という前提が……「人に親切にすれば幸福になる」という言い方には……ある。だからもう、その時点で、話が現実的ではないのだ。
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そして、「人に親切にすれば幸福になる」と言ってしまった場合、幸福ではない人は、人に親切にしてこなかった人だというとになってしまうのである。
一度も、人に親切にしたことがないので、不幸なのだ。そういう人が、幸福になるには、人に親切にすればよいのだということになってしまう。
「人に親切にすれば幸福になる」というライフハックを口(くち)にしている人は……そういう話をしているつもりはないかもしれないけど、そうなるのである。
ともかく、人に親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決してしまうわけではないので、人に親切にしても、幸福ではない場合がある。一回だけではなくて、何回も何回も人に親切にすればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。
しかし、何回も何回も人に親切にしても、不幸である場合がある。回数を増やすことでは、このことは、かわらない。
つまり、人に何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も何回も親切にしても、不幸をもたらす問題が、解決しなければ、幸福にならないという性質は、かわらない。
「人に親切にすれば、運があがって幸福になる」と言う場合もおなじだ。「運があがった」ことで、不幸感をもたらす問題が解決しなければならないのである。
しかし、不幸感をもたらす問題が、「運がないと感じる状態」をつくっているのである。だいたい、人に親切にすれば、運があがるということが、正しいこととして語られているけど、人に親切にしても、運があがるかどうかは、わからない。
そして、運というのは、現実の写し絵なのだ。実際に、不幸な生活をしていれば、運がない状態で暮らしているということになる。親切にするというトリガーをひけば、自動的に、運があがるということになっているのだけど、それは、たしかなことではない。
実生活のなかでは、現実的な問題でくるしんでいる人が、たとえ、人に親切にしても、運があがらない場合がある。どうしてかというと、現実的な問題でくるしんでいる人が、人に親切にしても、その人をくるしめている現実的な問題が解決しないからだ。
たとえば、家族のヘビメタ騒音で悩んでいる人が……だれかに親切にしても、家族のヘビメタ騒音がかわらなければ、ずっと、その人は、幸福ではない状態で暮らすということになる。
だれかに親切にしたあとも、幸福ではない状態で暮らしているのだから、「運があがった」とは言えない。たとえば、家族のヘビメタ騒音にくるしんでいる人が、だれか、ほかの人に親切にしたら、きちがい家族が、ヘビメタをやめてくれるのであればいいのだけど、実際には、そうならない。
人に親切にしたから、それを神様が見ていて、その人の家族に働きかけて、ヘビメタ騒音をやめさせてくれるというのであれば、それでよいのだけど、それは、現実的な話ではない。
ところが、「運があがって」という表現がある文に関しては、たいていの場合、神様や神様に相当する存在が、不幸をもたらす問題を消去してくれるという期待があるのだ。
これは、単なる期待だ。
単なる期待なのに、単なる期待だとは認識されていないのだ。単なる期待なのに、単なる期待であるようには表現されていないのだ。
たとえば、「人に親切にすれば運があがる」という文も一〇〇%構文の文なのだ。すべての……「人に親切にする」ということにおいて、人に親切にすれば、一〇〇%の確率で運があがるのである。この「運があがる」ということが、また、問題なんだよなぁ。
その問題を考慮しなくても、一〇〇%構文で言ってしまうということには問題がある。
「人に親切にすると運があがって幸福になる」という文に出てくる「人に親切にすると運があがって」という部分が「人に親切にすれば運があがる」という文の意味内容を含有しているかというと、含有している。
「人に親切にすると運があがって」という部分が意味していることは、「人に親切にすれば運があがる」という文が意味していることを前提にしている。「人に親切にすれば運があがる」という前提がなければ、「人に親切にすると運があがって」とは言えない。
「運があがって」という言葉が、「架け橋」のようになっているのだ。
「あがって」のあとに、なにかが語られる形式になっているけど、この形式を無視すれば、一度「人に親切にすれば運があがる」ということを、言い切っているということになる。
「人に親切にすれば、運があがる」という文は「Xをすれば、Yになる」という構造をもっている。「あがる」だから「なる」ではないのだけど、「あがる状態になる」ということにしておこうかな。
まあ、「Xをすれば、運があがる」ということにしておこう。「人に親切にする」以外にも、「掃除をすれば、あがる」とか「感謝をすれば、あがる」とか「パワースポットに行けば、運があがる」とか「おまいりすれば、運があがる」とか「なになに色の財布を使うと、運があがる」とか「こういう置物を玄関に置くと、運があがる」とかと、いろいろとある。
「運があがる」と言い切っているけど、「運」なるものが「現実の写し絵」であり、「空想上のもの」なので、はっきりしないのだ。
これは、勝手に言い切っているだけだ。本人が、そういうふうに思っているということを言っているにすぎない。しかし、一〇〇%構文の文なのである。
これは、やばい。法則性がありそうな一〇〇%構文の文だ。
この一〇〇%構文の文というのは、「自分の場合、運があがったよ」ということを意味する文ではないのだ。
あるいは「運があることがある」ということを意味する文でもないのだ。
すべてのXをすることにおいて、Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがるということを意味している。
ようするに、「Xをすれば、運があがる」という文は、「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」のである。あがらないことはないのである。
何回もやらないとあがらないということもないのである。一回でもやれば、かならず、運があがるのである。
どれだけ、へたくそなやり方でやっても、かならず、運があがるのである。その行為をやったのに、運があがらなということはないのである。
次に「運があがれば、幸福になる」という文について考えることにする。
この文も一〇〇%構文の文なのである。「運があがれば、幸福になることがある」ということを言っているわけではないのだ。「運があがれば、一〇〇%の確率で幸福になる」のである。
「運があがったのに、不幸だ」ということは、ないのでる。運があがれば、かならず、幸福になるのである。運があがったのに、不幸なことが起こるということはないのである。
かならず、幸福になって、そのあとも、幸福になったまま、すごせるのである。
だって、運があがれば一日目は、幸福になるけど、二日目には不幸になるということになっているのであれば、「幸福になる」とは言えない。イメージとしては、効き目は、永遠なのである。イメージとしては、幸福になったままなのである。イメージとしては、そのあと、不幸にならないのである。
イメージとしては、不幸になることはないのである。
……まあ、イメージの問題なんだけどね。
幸福になったあと、効き目が切れて、不幸になる場合があるということは、想定されていることなのだろうかね?
それとも、想定されていないのかな?
どっちかな。
まぁ、効き目の持続期間のことは、問題にしないことにしよう。
「幸福になる」と言っているだけで、そのあと、不幸になるかもしれないけど、一時的には幸福になるのだから、「幸福になる」という表現で問題がない……と考えることもできる。
しかし、一時的に、一度は、一〇〇%の確率で幸福になるのである。
「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文は、「Xをすれば、運があがる」という一〇〇%構文の文と、「運があがれば、Yの状態になる」という一〇〇%構文の文を、組み合わせた文になる。
ふたつとも、一〇〇%構文の文だ。
「Xをすれば、一〇〇%の確率で運があがる」し「運があがれば、一〇〇%確率でYの状態になる」のだ。「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」という文の意味は、そういう意味になる。
だから、この場合も、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を無視しているということになる。
言霊主義者が、『区別』に書いたことを理解していないのとおなじだ。
「Xをすれば、運があがって、Yの状態になる」と言っている人は、「一〇〇%の確率でそうなる」ということと「確率はまったくわからないけど、そうなることがある」ということの差を理解していない。区別をあいまいにして、ひとつの文に、ちがった意味を込めて使っている。
言っているほうも、聴いているほうも、区別をしないのだ。
これじゃあ、話にならない。
「Xをすれば、運があがることだってある」という意味で、「Xをすれば、運があがって、幸福になる」と言っている人は、その時点で、間違いをおかしている。
間違いなんだけど、本人は気がつかない。