とりあえず、掃除をすれば、幸福になるという理論を、「掃除幸福論」と呼ぶことにする。掃除をすれば、幸福になるという理論を信じている人たちを「掃除幸福論者」と呼ぶことにする。感謝をすれば、幸福になるという理論を、「感謝幸福論」と呼ぶことにする。感謝をすれば、幸福になるという理論を信じている人たちを「感謝幸福論者」と呼ぶことにする。
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「掃除をすれば、幸福になる」という文について、再び考えてみよう。
まず、掃除をしないにもかかわらず、幸福な人がいるということは、指摘しておかなければならない。
掃除をしない人は幸福ではないということになっている。掃除をすれば、幸福になるのだから、掃除をしない人は、幸福ではないのである。
しかし、掃除をしないにもかかわらず、幸福な人もいる。掃除をしているにもかかわらず、不幸な人もいる。
しかし、「掃除をすれば、幸福になる」という文は、掃除をしているにもかかわらず、幸福ではない人のことを無視している。
……いるのに、無視している。
掃除をすれば、幸福になるはずなので、掃除をしているのに、幸福ではない人はいないということになる。
けど、実際には、掃除をしているのに、幸福ではない人がいる。「掃除をする」ということに、注目すると、ほかの条件を無視してしまうのだ。
ほかの条件のほうが大切な場合がある。
ようするに、重要な影響を与えている場合がある。
ところが、「掃除をすると幸福になる」という文は、ほかの条件を無視してしまっている。
だから、掃除をしているにもかかわらず不幸な人がいるということになるし、掃除をしていないのに、幸福な人がいるということになる。
掃除をしているにもかかわらず不幸な人は、掃除以外の条件によって、不幸なのである。
あるいは、掃除をすること自体が……その不幸な人にとって……「掃除をすれば幸福になる」と言っている人が想定するような意味をもっていない場合が考えられる。
掃除だけで……幸福か不幸かが、決まるわけではない。
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掃除をする仕事をしている人たちがいる。掃除をする仕事をしている人たちが、みんな、みんな、幸福なのかというと、そうではない。
もちろん、掃除をする仕事している人たちのなかには、幸福な人もいるだろう。
ここでは、「幸福な人」というのは、本人が、幸福だと感じていれば、幸福な人だとする。主観的にその人が幸福だと思っていれば、幸福な人だということにしておく。
主観的にどう思っているのかということが重要だ。他人から見て、「幸福そうに見える」とか他人から見て、「幸福そうに見えない」ということは、一切合切関係がないということになる。
ところで、「一時的に幸福を感じる」ということと「継続的に幸福だと思えるような生活をする」ということはちがうので、「幸福」の意味はちがってくるのだ。
掃除をしたあと、一時的に幸福を感じた人だって、会社に行って、作業をしているとき不愉快な思いをするかもしれない。
掃除をしたあと、一時的に幸福を感じた人だって、会社に行って、顧客対応をしているとき、不愉快な思いをするかもしれない。
ようするに、一時的に、幸福を感じるということと、生活の中で、ずっと幸福を感じるということはちがうのだ。
会社で掃除をする人たちもいる。掃除をすれば、幸福になるのであれば、会社で掃除をしている人たちは(みんな)幸福だということになる。
学校で掃除をする人たちもいる。
たとえば、小学校で、全生徒が、学校がある日は、毎日、掃除をしたとする。その場合、掃除をしているのだから、全生徒が幸福かというとそうではないのである。
家で虐待されている小学生は、掃除をしても、それで幸福になるわけではなく、虐待される生活が続いてしまう。虐待される生活が、幸福な生活なのかというとそうではないだろう。
ところが、虐待される生活をしている子どもだって、「掃除をすれば」幸福になるのである。「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人たちは、そういうことを言っているのである。
「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人は、一括思考をしているから、わからないかもしれないけど、たとえ、毎日掃除をしていても、幸福ではない人たちがいる。
しかし、一括思考をしている人は、そういう人たちの存在を「理論的に」無視してしまう。まちがった、理論なのだけど、いちおう、理論は成り立っている。
「掃除をしても、不幸な人がいる」ということになる。これは正しい。
不幸側の人が「掃除をしても、不幸な人がいる」ということを「掃除をすれば幸福になる」と言っている人に、言うと……たいていの場合、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人は、怒って認めないということになる。
「なんだこんにゃろう」「ケチをつけるな」「掃除をすれば幸福になると言っているだろ」「ちゃもんをつけるな」と怒ってしまう場合だってある。
「そういう例外的なことを言ってもしかたがない」「掃除をすれば、運があがるから、今は不幸な人だって幸福になる」と言って、怒ってしまう場合だってある。
例外的なことなのかというと、そうではないのだ。
むしろ、「掃除する」という行為によって、幸福になる人のほうが、めずらしいのではないかと(わたしは)思う。
これは、「掃除をしたあと、一時的に、幸福感がある」ということではない。「幸福な生活」が成り立っていなければならないのだ。
だって、掃除をしたあと、一時的に幸福感を感じている人だって、自分は幸福だと思っているかどうか、疑わしい。
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ブラック工場勤務について考えてみよう。ある工場勤務の人がいたとする。ジェーさんだとする。ジェーさんは、毎日、工場現場の掃除をしているとする。
しかし、全体的には、つかれはて、異性にもてず、つらい生活をしているとする。
その場合、幸福かというと幸福ではないということになる。一時的に、幸福感を感じたとしても、生活全体が、幸福ではない場合がある。
さらに、たとえば、自殺寸前の名前だけ店長について考えてみよう。
名前だけ店長は、日常の業務なかで、掃除をしている。しかし、長時間のサービス残業をしていて、体がボロボロなのである。
そして、家に帰って寝る時間が短いので、憂鬱な気分で暮らしているとする。その場合、毎日掃除をしているのに、不幸な状態で暮らしているということになる。
つまり、毎日掃除をしているのに、幸福ではないのである。
「掃除をすれば、幸福になる」と言う人は、ブラック社長の下で働いている、名前だけ店長のような人のことを無視している。「掃除をすれば、幸福になる」理論は、間違っている。
どうしてかというと、一〇〇%詐欺になってしまうからだ。
「掃除をすれば、幸福になる」という法則が成り立っているかのようなことを言う人は、自分がなにを言っているのか、理解していない。
「(自分は)掃除をしたあと、一時的に幸福を感じる」ということと「人間は、掃除をすれば、幸福になる」ということは、ちがうことなんだよ。
こういうところに、ちがいがあるということがわかっていないまま、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人は、名前だけ店長に、もっともっと、掃除をすることを求めてしまうということになる。
名前だけ店長には休息が必要なのだ。もっともっと、掃除をすることが必要なわけではない。
名前だけ店長が、幸福ではないのは、掃除をしていないからではない。
実際に、掃除をしているのだ。
毎日毎日、いろいろなところを掃除している。片づけている。整理整頓している。
ところが、不幸なのである。不幸な暮らしをしているのである。
「掃除をする」ことで、不幸な状態から、幸福な状態にならないのである。
掃除をすることで、不幸な状態から、幸福な状態にならないということを、言われた……「掃除をすれば、幸福になる」 と言う人は、「感謝をしながら掃除をすればいい」ということを言い出す場合がある。
要するに、「掃除する」だけではなくて、幸福になるには、感謝をしながら、掃除をするということが必要になるということを、言い出すのだ。
そうすると、名前だけ店長のような人は、もっと、もっと、こまることになるのである。名前だけ店長が、不幸な原因……幸福ではない原因について……「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人たちは、誤解をしているのだ。
こういう人たちは、「言い方が悪い」と言い出す言霊主義者のように、相手のやり方が悪いから、幸福にならないということを言い出す(ことがある)。これも、しくみとして成り立っているのだ。あくまでも、相手がこまっている本当の理由を認めない。
勝手に妄想的に作り出した、本人の理論にこだわる。
「掃除をしたのに、幸福にならないなんてことはない」「やり方が悪いんだ」「感謝ながら掃除をすればいい」「そうすると、幸福になる」……なんてことを、言いだす。
感謝しながらというところを、感謝して、掃除をすると言い換えるとする。その場合、感謝をすることと、掃除をすることを(同時に)すれば、幸福になるということを言っているということになる。
結論から言うと、名前だけ店長みたいな人に、さらに、負担をかけることになる。
「掃除する」ことだけではなくて、「感謝すること」まで必要になる。「感謝ながら掃除をすればいい」と言う人は、ほんとうにそれがいい方法だと思っているみたいだけど、それは、どうかなぁ。
まじめな人に、さらに負担をかけることにならないかなぁ?
ぼくは、まじめな人にさらに負担をかけてしまうことのほうが、心配だなぁ。だって、そうだろ。
「掃除をすれば幸福になる」という命題が「偽である」ということが、はっきりしたのだよ。
その場合、ちゃんと、偽であるということを認めなければならない。
ところが、偽であるということを認めずに、「不幸な人の)やり方が悪いから、ダメなんだ」ということを言い出すのである。
言霊の説明のとき、小さな声で言うことの集合は、言うということの集合の中に含まれるということを書いたけど、感謝をしながら掃除をするということの集合は、掃除をするということの集合のなかに含まれる。
だから、掃除をすると幸福になるという命題が偽ならば、感謝をしながら、掃除をすると幸福になるという命題も偽になる。
掃除をすれば幸福になることだってある……と、掃除をする幸福になると言っている人たちは言うかもしれないけど、掃除をすれば幸福になる場合があるという文が持つ意味と、掃除をすると幸福になるという文が持つ意味は、まったくちがうのである。
ほんとうは、「掃除をすれば幸福になる」という考え方が間違っているということを認めなければならないのに、認めず、ほかの人のせいにしているのである。すでに不幸な人のせいにしているのである。すでに、つかれはてている人のせいにしているのである。
悪いけど、やることが増えしまう。
これが、どういうことなのか、「掃除をすれば幸福になる」と言っている人はまったく理解していない。
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もし「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と思っているのであれば、「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と最初から、言わなければならないのだ。
まあ、「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」という命題も、偽だけどね。
最初は「感謝をしながら、掃除をすると幸福になる」とは言わないのである。
そして、「掃除をしても幸福にならかなった」ケースについて、言及されると、後出しで「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」と言い出す。言い訳なのだ。
しかも、理論的に間違っているのである。
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「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と言う場合もおなじだ。最初は「掃除をすれば、幸福になる」と言っていたのだから、当然、こころをこめずに掃除をしても、掃除をすれば幸福になる(はず)なのである。
「掃除をすれば、幸福になる」と言っている人は、本人は、気がついていないけど、「こころをこめずに掃除をしても、掃除をすれば幸福になる」という意味をもつことも言っているのである。本人が、気がつかないのだけど……。
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名前だけ店長が、掃除をしていたのに、不幸だったということを言われると、掃除幸福論者は……たとえば…… 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」ということを言い出す。
名前だけ店長が、掃除をしていたのに、不幸だったという事実があった時点で、「掃除をすれば、幸福になる」という考え方は間違っているということになるんだよ。
別の言い方をすると、「掃除をすれば、幸福になる」という命題は偽であるということになる。だから、「掃除をすれば、幸福になる」と言っていた人は、そのことを、素直に認めなければならない。
ところが、認めずに、 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」とか「感謝をしながら掃除をすると幸福になる」とかと言い出すのである。
何度も言っているけど、理論的に破綻している。
「こころをこめて掃除をする」ことも「感謝をしながら掃除をすること」も「掃除をすること」のなかに含まれている。
もし、ほんとうに、 「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と考えているなら、「掃除をすると幸福になる」とは言わずに、最初から「こころをこめて掃除をすれば、幸福になる」と言わなければならない。
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ところで、これは、ものすごく言いにくいことなのだけど、最初から、普通の人の「思考レベル」を織り込み済みなのかなと思う。
正直に言うと、「掃除をすれば、幸福になる」と言う人が増えれば増えるほど、限界ぎりぎりの生活をしている人は、不幸になるのである。不幸度が増すのである。
ひょっとしたら、ぎりぎりの生活をしている人が「ネガティブな発言をする」というところまで、最初から、想定されているのかもしれない。ネガティブな発言というのは……たとえば……「掃除をしても幸福にならない場合がある」ということや「そもそも、掃除ができない」ということだ。
基本的なことを言うと、「掃除幸福論者」が幸福な人を増やそうとして「掃除をすれば幸福になる」ということを言うと、ぎりぎりの生活をしている人が、もっともっと、ぎりぎりの生活をすることになるのである。
まず、「幸福を(一時的に)感じる」ということと「幸福な生活をする(幸福な生活をある程度長い期間続ける)」ということは、ちがうということを指摘した。
「掃除幸福論者」が言っていることは、「自分は掃除をすると、幸福を一時的に感じる」ということであって「 掃除をすれば、幸福な生活をすることができる」ということではないということも、指摘した。
掃除をしているのに、不幸な人がいるということも指摘してきた。名前だけ店長は、掃除をしているのに、全体的には、不幸な生活をしているのだ。
残業が続いて、眠る時間が短い。恋愛をする時間もない。楽しい時間が一切合切ないのだ。そういう人に対して「掃除をすると幸福になる」と言うことは、はたしてよいことなのだろうかという問題がある。
ブラック社長が掃除幸福論者だとする。
そうすると、ほんとうは、ブラック社長が、名前だけ店長に長時間労働をさせて、名前だけ店長の幸福感を奪っているのに、ブラック社長は「掃除をすれば幸福になる」ということを、名前だけ店長に言うのである。
ただでも、ギリギリなのに、家に帰って掃除をすることは、つらいことになる。風呂に入る時間だってなかなかないのだ。料理をする時間もない。
どうしてそうなっているかというと、ブラック社長が、利益を得たいので、名前だけ店長を奴隷のように働かせているからなのだ。そんなブラック社長が「掃除をすれば幸福になる」とか「感謝をしながら掃除をすれば幸福になる」と名前だけ店長に言うのだ。
ブラック社長が、名前だけ店長がやらなければならないことを増やしている。名前だけ店長は、 感謝をしながら掃除をしても幸福にならない。ぎりぎり、かつかつのくるしい生活が続くだけだ。