集合的一括思考と呼ぶことにしたのだけど、集合的一括思考をしていると、間違うのである。
たとえば、「貧しい人でも努力をすれば成功する」と言ったとしよう。
どういう人を「貧しい人」と呼ぶのかははっきりしないのだけど、ともかく、「貧しい人」というイメージに従って考えるとしよう。
これ自体が、もう、法則性をあらわす文としては、不適切なのだ。
まあ、話をすすめよう。
「貧しい人」という集合のなかにも、いろいろな貧しさの人が含まれているのである。はっきり言えば、「貧しい人」と一括してくくったけど、その中身は、千差万別だ。
ところが、貧しい人という集合のなかには、おなじように貧しい人がいると……集合的一括思考をする人は……考えてしまうのである。貧しい人という集合のなかには、均一な貧しい人がいるという前提で物事を考えてしまうのである。
ところが、実際には、貧しい人のなかにも、いろいろな人がいるのである。貧しい人々が、共通のコミュニティーに属しているわけではない。ほかの貧しい人との接触頻度や関係というものが、ちがうのである。そして、文化的な資産の差もある。
家によって、文化的な資産がちがうし、地域によっても文化的な資産がちがう。貧しさを、本人の年収や、親の年収で考えた場合、年収(金額)以外の差は無視されてしまうのである。
そして、たとえば、貧しさを、本人の貯蓄額や、親の貯蓄額で考えた場合、貯蓄額以外の差は無視されてしまうのである。貧しさを、本人の年収と貯蓄額や親の年収と貯蓄額で考えた場合、年収と貯蓄額以外の差は、無視されてしまうのである。
そして、「貧しい人」のなかに入る人たちの年収がちがうし、貯蓄額もちがう。
年収や貯蓄額という「貧しさの基準」を考えた場合でも、貧しい人とひとくくりにされた人たちは、それぞれ、ちがう年収額や、ちがう貯蓄額で生活をしているのである。
ようするに、貧しい人という集合の中に入っている人たちは、同様に貧しいわけではないのだ。
ところが、一括思考をするので……「貧しい人といったら、貧しい人なのだ」と考えてしまう。
これが、じつは「ひどいあやまり」なのだ。「あやまり」なのだ。ところが、そんなことは、「貧しくても、努力をすれば成功する」と考えている人は、考えない。
たとえば、Aさんという人がいるとする。Aさんは貧しい人だとする。そのAさんが、社会的に?成功した。そのような例があるとする。その場合、集合的一括思考をする人は「貧しいAさんが成功したのだから、貧しい人も成功する」と考えてしまう。
そこで、貧しさの程度や、貧しさ以外の条件は、捨象されてしまう。
無視されてしまう。
努力をするかどうかという条件のほかに、貧しい(貧しさにおいて下である)という条件をつけたして考えたわけだけど、この場合も、「貧しさ」という条件は、あとでつけくわえられることになる。
そして、「成功した例」が語られることになる。
しかし、貧しい人の集合を考えた場合、みんながみんな、Aさんとおなじように貧しいわけではない。条件がちがう。
ところが、貧しい人は、Aさんとおなじ条件だと……自覚がないまま……考えてしまうのである。
かりに、Bさんが貧しい人だとする。そのBさんが社会的に成功しなかったとする。
「努力をすれば成功する」と考える努力論者は、貧しいBさんが成功しなかったのだから「貧しい場合は、努力をしても成功しない」と考えるかというと、そのようには考えないのだ。
例としてあがるのは、成功した人の例だけなのだ。集合一括思考をしているのに、ひとりでも貧しいのに、成功した人がいれば、「貧しくしても、努力をすれば成功する」ということになってしまう。Bさんが成功しなかった例というのも、自動的に無視される。
そうなると、「貧しいから、(努力をしても)成功しなかった」という思考は、間違った思考だと思われるのである。
ようするに、最初に……条件なしで「努力をすれば成功する」と考えて、そのあと……「貧しい場合は、努力をしても成功しない」という反論に対応して、Aさんが成功したという例を後出しで付け加えるのだ。
こうすると……あたかも、努力以外の条件についても、考えているようなポーズをとることができる。
しかし、これは、見せかけのポーズだ。
貧しくても成功したAさんのような例だけを取り上げるのである。そうすると、Aさん以外の貧しい人を、努力不足だとせめることができるようになる。
これ、最初から、他人をせめるための道具なのである。
「貧しくてもAさんが成功したのだから、Aさん以外の貧しい人も成功するはずだ」と……無自覚に……考えてしまうのである。
しかし、Aさんの条件と、Aさん以外の条件は、貧しさにおいてもちがうし、ほか条件においてもちがうのだ。Aさんには、Aさんに協力的な家族がいたかもしれない。
エイリには、勉強の邪魔をするきちがい家族がいた。そのきちがい家族の邪魔のしかたが、ほかの人が考えるような邪魔のしかたではないのである。常軌を逸したしつこさで、邪魔をするのである。どの時間も、可能な限り邪魔をするのである。
そういう家族と一緒に住んでいるという条件は「貧しさ」という条件を導入した場合でも、無視されているのである。事前に無視された条件なのである。
なので、事前に無視された条件は、結果に影響を与えないという(間違った)考え方がしょうじる。無視しているから、ないのとおなじで、ないのとおなじだから、どんなことが起きても、結果に影響を与えないということになってしまうのである。
ヘビメタ騒音という条件は、無視されているので、ヘビメタ騒音という条件がもたらすことに関しては、無視をしてもいいという考え方が横たわっているのである。
ようするに、「貧しさ」という条件を導入した場合でも、貧しさのなかの条件のちがいは無視され、ほかの条件も無視されるということになる。しかし、「無視している」という気持ちがまったくないのである。「ちゃんと考えている」と思っているのである。
集合的一括思考をしている時点で、じつは、人の条件について、誤った考え方をもっているのである。
ところが、それがわからない。
集合的一括思考をしている人は……『自分』は正しいことを言っているつもりなのだ。「Aさんが、成功したのだから、貧しくても、努力をすれば成功する」と思っているのだ。
その場合、「貧しいから成功しない」と言っている人たちは、みんな……「言い訳をしているだけだ」ということになるのである。こういう思考の流れがある。
最初に、いいこととして「努力をすれば成功する」という考え方を受け入れたために、他人に対して、その他人は「言い訳をしているだけだ」と決めつけるところまで、誘導されてしまう。
これが、一見正しそうに見える……一〇〇%構文をもつライフハックが、もたらす、効果だ。
まず、普通の人は、「努力をすれば成功する」という文が一〇〇%詐欺構文の文だということ気がつかない。
だから、条件を無視して、考えてしまう。
そして、普通の人は、自分が一倍速で経験したことは重視するけど、他人が一倍速で経験したことは、無視する傾向が非常に強い。例外的な「普通の人」はいるだろうけど、たいていの「普通の人」は、一〇〇%%詐欺構文を与えられると、条件を無視して(他人のことについて)考えるという傾向が、非常に強い。
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ちなみに「貧しいなら、努力をしても成功しない」という命題も『偽』だ。
ここで言いたかったのは、「成功しなかった例」というのは、無視されるということだ。成功しなかった例をあげて、これまた、間違った文を言う確率は、低いのだ。
ちなみに、「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は成功しない」という文も間違っている。理論的におかしなことを言っているということになる。「貧しいBさんが成功しなかったのだから、貧しい人は、みんな、成功しない」と言えば、文のおかしさに気がつくだろう。単に「貧しい人」と言った場合も「貧しい人は、みんな」と言った場合も、おなじ意味になるのだ。「貧しい人」という言葉が示す集合と、「貧しい人は、みんな」という言葉が示す集合は、おなじだ。