2026年3月19日木曜日

●この個別性を無視した「三点セット」が、抑圧を生み出す■社会※2026/03/19 23:36

 個別の条件を無視してしまうというのが、最大の欠点なのだ。しかし、これもまた、運用の問題がある。個別の条件を無視して「Xをすれば、幸福になる」と言ったとする。個別の条件を無視しているので、「だれもが」Xをすれば、幸福になるという意味になる。一括思考で、個別性を無視しているのだ。あたかも、いいことであるような気分にさせる。あたかも、有効であるような気分にさせる。しかし、個別性を無視しているので、条件が悪い人はXをしても、幸福にならないことが、決まっている。ところが、そこで終わりではないのだ。条件が悪い人が、条件について、口にすれば……ほんとうは、めちゃくちゃなことを言っている人たちが「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」ということになっているのである。これも、運用上、決まっているプロセスなのである。だから、「Xをすれば、幸福になる」という嘘を押しつけられた上に、失敗すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」と言われることになる。条件が悪い人が、相対的に条件がいいかもしれない他者に言われるということになる。これは、最初から決まっている。

「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば、運があがる」「親切にすれば運があがる」「感謝をすれば運があがる」「掃除をすれば元気になる」「 親切にすれば元気になる」「感謝をすれば元気になる」というようなことを言うけど、最初から、条件に差があるのである。ひどい条件のもとで暮らしている人は、そのひどい条件の影響を受けて、不幸だったり、運がない(と思えるような状態だったり)、元気ではない状態だったりするのだ。だから、条件を無視して、条件の影響を無視すれば、なんとだって言えるのだけど、言っただけなのだ。ところが、「掃除をすれば幸福になる」「親切にすれば幸福になる」「感謝をすれば幸福になる」「掃除をすれば、運があがる」「親切にすれば運があがる」「感謝をすれば運があがる」「掃除をすれば元気になる」「 親切にすれば元気になる」「感謝をすれば元気になる」と言うほうは、絶対にそうなると思っているのだ。だから、「そうならなかった」という失敗報告を受けると、ごく自然に、「そんなのは、あまえだ」「そんなのはいいわけだ」というようなことを言うのだ。ここまでがセットなんだよ。

そして、「自己責任論」と「人のせいにしない論」が、補助システムとして成り立っている。これも、条件に見解なく、なんだろうが、自己責任だということを言っているわけだから、個別性を無視している。この個別性を無視した「三点セット」が、抑圧を生み出すのである。さらに問題なのは、ほんとうは、洗脳されて、「Xをすれば幸福になる」「そんなのは、いいわけだ」「人のせいにするな」と言っている側が、抑圧システムの主役になっているのに、抑圧システムの主役になっているほうが、「正しいことをしている」と思っている点だ。

「Xをすれば幸福になる」と書いたけど「Xをすれば運があがる」や「Xをすれば元気になる」でもおなじだ。「そんなのは、いいわけだ」と書いたけど「そんなのは、あまえだ」でもおなじだ。「人のせいにするな」と書いたけど「すべては自己責任だ」でもおなじだ。

これらの発言というのは、みんな、個別性を無視した発言なのである。これらの発言というのは、みんな、条件を無視した発言なのである。 

●「人のせいにしない」■社会※2026/03/18 15:10

「人のせいにしない」というのは、かたちをかえた「自己責任論」なのだ。

これも、サラリーマン向けのしあわせになる本みたいな本のなかで、よく言われることだ。こういう言い方がはやると、じつは、条件が悪い人が、もっともっと、追い込まれることになる。

「人のせいにしない」というのも、一括思考だ。

どんなことであれ、人のせいにしないということだから、個別性を考えていないのだ。

この……条件の無視と、個別性の無視というのは、かならず、問題をはらんでいる。

条件が悪い人というのは、ほんとうに、人のせい(他人のせい)で、悪いことが発生する場合がある。きちがい的な家族が、きちがい的な行動をした場合、ほんとうに、被害を受けている人が「きちがい的な家族のせいだ」と言うことができなくってしまうのである。

個別性を考えないので……ほんとうに「他人」に責任がある場合も、その人(他人のせいだと言っている人)のせいだということになってしまうのである。

なんだろうが「あの人に責任がある」と言ってしまうと、それは、「人のせいにしていることになってしまうのである。

そして、「人のせい」という言葉は、「ほんとうは、人のせいではないのに人のせいにしている」というニュアンスをもっているのである。

ただ単に、他人に責任があるということを言っているわけではなくて、かならず、的が外れたことで他人をせめているということになってしまうのだ。つまり、本人に責任があるにもかかわらず、その本人が、「他人のせいにしている」という意味あいがしょうじる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。

Aさんが「Bさんのせいだ」と言うと、Aさんが「Bさんのせいにしている」ということになり、Aさんが、ほんらい、Bさんの責任ではないことについて、Bさんをせめているということになってしまうのだ。自動的にそうなってしまう。

普通の人たちのこの言葉に対する解釈は、Bさんのせいではないのに、Aさんが、Bさんのせいにしているということになってしまう。

Aさんが「Bさんのせいだ」と言った場合、ほんとうは、Aさんのせいなのに、AさんがBさんのせいにしていると(普通の人は)思ってしまうのだ。

「だれだのせいだ」と言う人のことを「本人」だとしておく。本人が「だれだれのせいだ」と言ったとき、「だれだれ」に該当する人のことを「対象者」だとしておく。

そして、本人が「対象者のせいだ」という言葉を放ったということを、知った人のことを「普通の人」だとしておく。

ほんとうは、本人に責任があるのに、責任のある本人が、他人である対象者のせいにしていると(普通の人は)解釈してしまうのだ。

ところが、普通の人は、本人のせいだと決めつけているのだけど、とくに、本人のせいだと決めつけたという気持ちがないのだ。自覚があんまりない。

あるいは、自覚がまったくない。

本人のせいなのかどうか知らないけど……人のせい(対象者のせい)にするのは、よくないと自動的に判断しているにすぎない。

本人のせいかどうかというのは、普通の人にとって、わからないことなのである。

その場合、ほんとうに、本人のせいである場合はいいけど、ほんとうに、対象者のせいである場合は、本人が傷つくのである。不快な思いをするのである。

自分勝手な人がいるので、自分勝手な人が、ほんとうに、ひどい迷惑行為を、がめつく、やる場合がある。その場合も、自分勝手な人にやられた人が、「自分勝手な人(対象者)のせい」で迷惑したということを言えば、普通の人は、ほんとうは、自分勝手な人のせいではないのに、自分勝手な人にやられた人が、自分勝手な人のせいにしていると思ってしまうのだ。

一括思考は、個別性を重視ないので、「ともかく、こういうことを言っている人は」「人のせいにしている」ということになってしまう。

けど、それは、間違いだ。

個別に考えなければならないのである。

責任の所在に関しては、個別に考えなければならないのである。

それを、一括思考で「責任の所在について」考えずに、ほんとうは、「本人に責任がある」と、他人であり、第三者である「普通の人」が考えてしまう。

ともかく「だれだのせいだ」と言った人に責任があり、「だれだのせいだ」と言った人が、ほかの人(対象者)のせいにしているだけだと決めつけてしまうのである。

こんなの、ない。

個別性を重視しない考え方というのは、現実の条件を無視してしまうので、現実世界で「だれだれ」が、ほんとうにやったことを軽視してしまうのだ。

そうなると、条件が悪い人が、悪く言われるということになるのである。

そして、「人のせいにしない」と言っている人も、今まで見てきたよう、「人のせいだ」と言った人のせいにしているのである。

「人のせいだ」と言った人に責任があると決めつけているわけで、「人のせいだ」と言った人のせいにしている。

だから、自分は、中立を保ちながらも……そして、自分は「人のせいにしていない」つもりで、「人のせいだ」と言った人のせいにして、「人のせいだ」と言った人を、道徳的にせめているということになる。

中立ではない。

ちゃんと、「人のせいだ」と言った人のことを攻撃している。勝手に「人のせいだ」と言った人のせいにしている。

個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に、責任がある場合について考えてみよう。

その場合は、「人のせいだ」と言った人をせめる行為は、いちおう、認められる。

しかし、個別性を考えて、「人のせいだ」と言った人に責任がない場合はどうなのだ。個別性を考えた場合、対象者の責任である場合がある。

その場合、「普通の人」は間違ったことを言って、「(だれだれのせいだと言った)本人」をせめていることになる。

 「人のせいにしない」と言っている「普通の人」も、「ぬけぬけ」なのだ。

「(自分は)人のせいにしない」と思っている「普通の人」も、普段、自分が一倍速で経験したことに関しては、ちゃんと、「人のせい」にしているのである。

けど、自分が「人のせいにしている」という気持ちが発生しないだけなのである。

どうしてかというと、「ちゃんとした理由がある」と思っているからだ。

「対象者のせいだ」と言っても、自分の場合は、正しいのである。実際に「対象者のせいだから」「対象者のせいだ」と言うことは、正しいと思っているのである。

ちゃんと、自分の現実的なことに関しては、他者(対象者)の責任を問うようなことをしている。

ようするに、「ぬけぬけ」なのである。

自分が「あたりまえだ」と思っていることについては、「他人(対象者)の責任を追及して、あたりまえだ」とごく自然に思っているのである。

「人のせいにしない」ということを実践していないのである。

自分が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、自分が他人のことを見ているときは、ちがった視点が成り立っているのである。

視点がちがうので、ぬけぬけになる。

自分が「人のせいにしないようにしよう」と思う場合は、自分のなかに人のせいにしたい気持ちがあるけど、ほんとうに、「人のせいではない(ということを自分が知っている)場合」なのである。

言霊主義者の「雨がふると言ったから、雨になった」ではないのだけど、本人にとって都合がいいことが、選ばれて、本人のなかで、一般化している。

ようするに、自分の意識が集中したときだけ、そのように行動しているのだけど、自分の意識が集中していないときは、普通に「人のせいにしている」と言うことに、自分自身が気がつかない状態で暮らしている。 

*     *     * 

「人のせいにしない」という言葉も、現実社会において、立場が悪い人をおさえつけるような役割をはたしている。「人のせいにしなければ、幸福になる」というような感じの本を出している人たちがいる。

その人たちは、一般的な読者よりも、社会的な地位が高いのである。

その人たち(著作者たち)が、普段、「人のせいにしないで」暮らしているかというと、そうではないと思う。たぶん、「ぬけぬけ」だと思う。

*     *     * 

条件が悪い人や立場が悪い人は、不当な扱いを受けがちになる。

その場合、ほんとうに、「相手」が悪い場合がある。

ようするに、条件が悪い人や立場が悪い人の言い分が正しい場合がある。

しかし、「普通の人」が一括思考をしてしまうと、「本人」の言い分が正しい場合も、「普通の人」は「本人」の言い分が正しいとは認めないことが多い。

この人たち……「普通の人」は、「本人」の言い分が正しい場合も、「本人である」条件が悪い人や立場が悪い人が「人のせいにしている」と認識してしまうのである。

このような構造が成り立っている社会というのは、このような構造が成り立っていない社会よりも、悪い社会なのだ。生きにくい社会なのだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。