「ニコニコしていたら、ニタニタしていると言われて不愉快な気持ちになった」というようなことを書いた。ニコニコしていたら、不愉快なことが起こったのだから、ニコニコしていたら、悪いことが起こったのである。
ならば、「ニコニコすると悪いことが起こる」と間違った一般化をするともできるというとを書いた。この話は、不自然ではないだろう。
ところで、「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」という意見がある。「ニコニコ」と「ニタニタ」に関しても、受け止め方の問題だと言うことが、できるのだ。
この人たちの意見に従えば、一度は「ニタニタしている」と言われて不愉快な思いをしたという認識があるのだけど、その認識を「ニタニタしている」と言われたことは、いいことなのだと、認識しなおせば、よいということことになる。認識をしなおすというのは……つまり、受受け止め方をかえるということだ。
この人たちは、「ニタニタしている」と言われたことはいいことなのだと認識すればよいということを言っているのである。
この人たちは、受け止め方に問題があるときつめつけているけど、ほんとうに、受け止め方に問題があるのかどうかは、わからない。
ぼくは、「ニタニタしている」と言われて不愉快な感じがするのは、正常だと思える。
「ニタニタしている」と言われることが、いいことであるならば、「ニコニコするといいことが起こる」と100%詐欺構文をつくりだすことができるのだ。不愉快だと認識したときも、打とめ方をかえれば、それで、愉快だと思うことができるのである。
だから、その都度、自分にとって都合がいいように、自分の認識を書き換えればいいのだという言い分なのだ……。
受け止め方をかえるということは、じつは、自分の認識を書き換えるということなのだ。しかし、これが、できるのであれば、ある意味、精神異常なのだ。
この人たち……「受け止め方をかえればいい」と言っている人たちは、自然な心の流れ……認識を無視して、認識を書き換えればいいと言っているのである。
しかし、それは、できないことだ。受け止め方がわかるときというのは、それまでの文脈がかわるときなのだ。自我を構成しているルールをいろいろと書き換えないと、「これは、不都合だから、受け止め方をかえよう」と思っても、うまくいかない。
自我そのものの変更を意味するので、意識的な自我が「不都合だから、このように受け止め方をかえよう」と思っても、そのような自我自身がかわっていないのだから、無理なのだ。
「不都合だから、このように受け止め方をかえよう」と思ったときの自我というのは、従来の自我なのだ。だから、受け止め方を、かえるということはできない。書き換えようとしている自我が、書き換えようとしている自分自身を認識してしまう。
最初から「ニタニタしている」と言われたら、いいことが起こったと思う自我の構造と、ほんとうは「ニタニタしている」と言われて、いやなことが起こった(不愉快なことが起こった)と思う自我の構造はちがうのである。
ともかく、人には「受け止め方をかえればいい」なんて言っている人は、なかなか、受け止め方をかえない人なのである。自信をもって「すべては受け止め方の問題だ」と思っているわけだろ。そして、それを激しく主張するわけでしょ。「すべては受け止め方の問題だ」という考え方には問題があるということを指摘されただけで、怒ってしまう人が多い。
ぼくの経験の範囲で言うと「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言った人は、みんな、「すべては受け止め方の問題だ」という考え方には問題があるということを指摘されただけで、怒った。
受け止め方をかえられない人たちなのである。