「人のせいにしない」「人のためにつくす」というのは、言葉はきれいだけど、実際には、条件が悪い人を、おいつめる言葉なのだ。
これ、条件のことは、考えていない発言なのである。運用の問題があると、ずっと、言っているだろ。引き寄せを成功させるためには、「人のせいにしない」「人のためにつくす」ということを守って暮らせばいいということになっている。
そういう用意ができると、引き寄せが可能になると言うのだ。しかし、ぼくが、ここで書いてきたように、引き寄せ理論というのは、カルト理論で人を不幸にするものだ。
ぜんぜん、よくないのである。
ほんとうの世界というのは、それはそれは、ものすごい、差がある世界なんだよ。条件に差がある世界なんだよ。ものすごく悪い条件下で暮らしている人は、基本的に言って「よいこと」を引き寄せることができない。
けど、これも、「人のせいにしない」「人のためにつくす」ということを(そのくるしい人が)守っていないから、引き寄せられないのだという理論につながっていく。
条件が悪いというのは、実際には、条件が悪いというような言葉で、あらわすことができないことなのである。
もう、引き寄せや思霊については、さんざん書いてきたけど、書いてきたような「しくみ」によって、じつは、社会に悪い影響を及ぼすのだ。「人のせいにしない」「人のためにつくす」というのは、麻薬や覚せい剤のようなもので、かならず、悪い効果を及ぼすものなのだ。
これ、精神のドラックなのだ。悪い意味で、ドラック。実際には、悪が支配しているのである。
この「精神世界の話」というのは、じつは、悪の支配を強化するものだ。悪魔側の道徳論なのだ。一見よさそうに見えるけど、かならず、運用のレベルで問題が発生するものになっている。まあ、気がつかない人が多いけど……。
* * *
引き寄せ能力をあげる話のなかに出てくる……「人のせいにしない」も「人のためにつくす」も、意図的なものなのだ。そして、引き寄せの力をあげるためにすることなのだ。この文脈ではそうだ。
そうなると、ほんとうは、別の目的のために、そうするということになってしまう。
おわかりだろうか。
ほんとうの良心に従った「人のためにつくす」とは、ちがうのである。「人のせいにしない」というのは、ほんとうに人のせいではない場合なら、有効だけど、ほんとうに人のせいである場合は、有害な圧力をかけることになる。
ともかく、責任の所在を考えないで「人のせいにしない」などと、ほかの人に言うのは、有害な圧力をかけることになる。
自己責任論とおなじなんだよなーー。
「人のせいにしない」というのは、せいぜいのところ、自分を対象にして、努力目標にするべきだ。
ほかの人に、無差別に言って、どうする?
ほかの人に無差別に言うということは、ほんとうに、人の行為が原因でこまっている人をおいつめることになる。
なんで、わからないかな?
* * *
世のため人のためと、言っているけど、ほんとうは、自分の利益が欲しい人たちなんだよ。「ごりやく」に、こだわっている人たちであるわけ。
それは、問題はないのだけど、一度、引き寄せ理論を信じてしまうと、引き寄せパラダイムに従って、ほかの人のことを見るようになってしまう。何度も言うけど、それが問題なの……。
実際には、条件の格差があるのだけど、引き寄せパラダイムは、条件の格差を認めないということになる。条件の格差が、実際の格差を引き起こしているわけ。
すでに、起こってしまったことなんだよ。わからないかな? その起こってしまったことについて、『あづけで』……『あとだし』で、引き寄せパラダイムの見方で、説明をしてしまうわけ。『あとだし』で説明しているのだから、引き寄せパラダイムを信じている人にとっては、納得がいく説明になる。
言霊や思霊でも説明したけど、厳然とした差を生み出しているのは、現実的な条件の格差なんだよ。
ほんとうは、悪い条件だからこそ、悪いことが起こってこまっている人に対して、「引き寄せ能力がないから」悪いことが起こっていると説明してしまうことになる。
ほんとうは、悪い条件だからこそ、悪いことが起こってこまっている人に対して、「悪いことを引き寄せているのはあなただ」と説明してしまうことになる。
これは、ほんとうは、よくないことだ。
そりゃ、そうだろ。ほんとうは、その人は……悪い条件でくるしんでいる人は……悪いわけではないのだから……。
さらに、たとえば、引き寄せ能力をあげるには、「人のせいにしないようにすることが必要だ」とか「人のためにつくすようにすることが必要だ」とかと言ってしまうと、じつは、引き寄せ能力が低い人は、「人のせいにしがちだ」とか「人のためにつくすことをしていないとだ」ということになってしまうんだよ。
引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人は、「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」とかと、実際に、説明したわけではないけど、引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人は「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」とかと説明したのと、おなじような効果をもっているのである。
ようするに、引き寄せパラダイムに従っている人は、引き寄せができない人や、引き寄せ能力が低い人を「人のせいにするような人だ」とか「人のためにつくすことをしていない人だ」 とかと見なすようになってしまうのである。自動的にそうなる。
引き寄せるのに、道徳性が必要だということになると、引き寄せられない人は、道徳性が低い人だとか、道徳性がない人だということに、なってしまうのである。
引き寄せパラダイムに従っている人のなかでは、そうなっしまう。
だから、引き寄せパラダイムに従っている人は、ごく自然に「引き寄せられない人」を見下すようになってしまうのである。
「道徳性がないから、うまく引き寄せることができないのだ」という見方が、引き寄せパラダイムに従っている人のなかで、定着してしまう。
だって、うまく引き寄せるには、道徳的にすぐれた存在にならなければならないのだから、そうなる。
しかし、実際には、引き寄せ教祖は、カネもうけのために、引き寄せ理論をはやらそうしているわけ。そして、引き寄せ信者は、ご利益が欲しくてほしくてたまらないから、引き寄せ能力をあげようとしているわけ。
ご利益と書いたけど、自分の願望が、かないやすくするように、引き寄せというものをやってみようと思っているわけだ。
だから、「道徳的にすぐれている」とか「道徳的になろう」と思っても、けっきょくは、自分の利益になるようなことをしているにすぎないわけ。
そして、「人のために尽くす」ということを念頭に置いた場合、人がどういう状態になるかというと、あんまりいい状態にならない。
これは、「人に親切にすると幸福になる」というライフハックのことについて書いたときも説明したけど、恩着せがましくなってしまったり、相手がやってほしくないことを、やってしまうことになる。
そして、実際にこまっている人には、手を貸さないということになってしまう。実際にこまっている人には、「助言」をするようになるのだけど、それが、よくない助言なのである。
どうしてよくない助言になってしまうかというと、相手の条件を無視した助言になるから、よくない助言になってしまうのだ。
引き寄せ能力を上げたいという気持ちで、相手に尽くした場合、目的は、引き寄せ能力を上げたいということだから、ほんとうは、相手を見ていないということになる。相手のことを考えているようで、自分の利益のために、そうするということになってしまう。
そうなると、相手が望んでいないことでも、自分がそうしてやりたいからそうするというようなことになってしまうのである。ようするに、相手がなにを望んでいるのかについて、鈍感になってしまうのである。
そして、実際に、条件が悪くて、悪い出来事が多数発生している人には「引き寄せはあるから、引き寄せられるようになればいい」と助言してしまう。
しかし、相手は、現実的な問題でくるしんでいるわけ。たとえば、ブラック社長にやられている名前だけ店長は、長期間にわたって、サービス残業をしているからこまっているわけ。
それに関しては「サービス残業を引き寄せてしまったからダメなんだ」というようなことを、言うわけだから、名前だけ店長はこまってしまう。
そして、「いいことを引き寄せるには、引き寄せ行為をしたほうがいい」ということになるわけ。引き寄せ行為というのが、「強くイメージすること」であったり、「引き寄せ教祖が考え出したおまじないのようなことをすること」であったりするわけ。
そして、それでも、引き寄せができない場合は、「道徳的にすぐれた存在になればいい」ということになるわけ。「人のためにつくしたり」「人のせいにしない」ということを実行すればいいということになる。
ところが、表面的には、「名前だけ店長は、ブラック社長のせいにしている」というような解釈が成り立ってしまう。
これも、ひどい話なのだけど、やられているほうが、「人のせいにする」という「非・道徳的なことをしている」と見なしてしまう。ジャイアンとのび太の話でも、「のび太が、ジャイアンのせいにしている」という言い方を採用した場合、「のび太が、ひとのせいにするという非・道徳的なことをしている」と見なしてしまうことになる。
「なんだかむしゃくしゃする」とか「なんだか気にくわない」という理由で、のび太をなぐったジャイアンのことは、まったく問題にならず、「ジャイアンのせいにしたのび太」のほうが、人のせいにしているからダメなんだということになってしまうのである。
ブラック社長と名前だけ店長の場合も、実際に、名前だけ店長が、いじめられているのに、「名前だけ店長が、自分のつかれを、ブラック社長のせいにしている」ということになってしまうのである。
ちょっと言い方が複雑になるのだけど、「人のせいにしている」というのは、抽象的な言い方なのである。そのとき、個別的で、具体的な出来事について言っているわけではないのだ。
ともかく、「人が人をせめている」場合の話をしているということになる。
「人が人をせめている」と書いたけど、ネガティブな言い方をすると、人をせめている人が、「不平を言っている」とか「不満を言っている」ということになる。
抽象的にはそうなんだよ。
たとえば、のび太は、ジャイアンになぐられたことについて、不満を言っているということになる。不平を言っているということになる。
この場合、不満や不平を口にしているほうが、ともかく、悪いという見なし方が成り立っているのだ。
こういう前提で、一度、抽象化してしまうと、やられているほうに、理がある場合でも……やられているほうが、人のことをせめたなら……人のことをせめているほう(人)が、人のせいにしているということになってしまうのである。
こういう、言い方なのである。
めちゃくちゃに言いにくいことなのだけど、くるしんでいる名前だけ店長が、不平不満を言っているということになってしまう。その場合、不平不満を言っているほうが悪いということになってしまう。
わかるかな?
もちろん、やられたほうが悪い場合だってある。
しかし、それについては、個別具体的な判断をしなければならないのである。
個別具体的なケースついて、個別具体的な判断をしなければならないのである。それなら、どこに正義があるのか?
自分の富を増やしたいから、名前だけ店長を不当に働かせているブラック社長は、悪くないのかという問題がしょうじる。
しかし、「文句をっているほうは」名前だけ店長だということになる。名前だけ店長が、やられているほうなのに、名前だけ店長が、「人のせいにする悪い人間だ」ということになってしまうのである。
ようするに、「だれのせいか」ということを、まったく問題にせず、ともかく、「人のことをせめしている人が悪い」ということになってしまうのである。
「人のせいにしない」という言い方には、このような問題がある。
「人のせいにしない」という言い方は、やられたほうが悪いということを前提にした言い方なのである。
やられたほうが、ほんとうは、やられたわけではないのに、やったひとのせいにしているということになってしまう。
こんな、ひどい言い方は、ない。
やられたほうが、不当に!!やったほうのせいにしているという判断が混じった言い方になっているのである。もし、ほんとうにやられたほうが正しく、やったほうが悪い場合でも……やったほうが悪いのではなくて、やられたほうが悪いと最初から決めつけた言い方になっているのである。
どれだけひどいことをやられても、やられたほうが不平を言うなら、やれたほうが悪いという見なし方が前提にある言い方なのだ。
これが、やっかいなのは、不平を言いっているほうが、悪い場合が実際にあるということなのである。
その場合、そのよう一例をあげれば、不平を言いっているほうが、悪いということを、一般化することができるのだ。
どうしてかというと、普通の人は、集合的一括思考をしてしまうからだ。
悪い例をあげて、一般化した説明をすると、それで、一般化した説明を信じてしまう。
ほんとうは、個別性を無視しているという問題があるのに、それには、気がつかない。
集合的一括思考をしてしまう人は、個別性を無視しているということに、気がつかない。
名前だけ店長が、ブラック社長に、「もう、つかれたので、サービス残業をさせないでください」ということを言ったとする。これだって、名前だけ店長が、不平不満を言ったことになる。
あるいは、「つかれた」とネガティブなことを言ったということになる。
ちょっと脱線するけど……言霊ということを考えるなら、「つかれた」と言うから、つかれるのだということになってしまう。
「つかれると言うから、つかれるんだ」とブラック社長が言った場合、どうやって、言霊主義者は、ブラック社長に反論するのだ。言霊主義者は(ブラック社長に)同意すると思う。ようするに、言霊主義者は(かなりの高確率で)ブラック社長の見方をして、実際くるしんでいる名前だけ店長をさらにくるしめることになる。
話を元にもどそう。
ともかく、名前だけ店長が不平不満を言ったということになってしまうのである。そして、不平不満を言うことは、悪いことだということになっていると、悪いことをしたのは、ブラック社長ではなくて、名前だけ店長だということになってしまうのである。
名前だけ店長が、ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。
名前だけ店長がこれほどまで疲れているのは、たしかに、ブラック社長の要求に問題があるからなのだ。
しかし、名前だけ店長が不平不満を言ったということになれば、名前だけ店長が「不当に」ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。
ほんとうは、ブラック社長のせいではないのに、ブラック社長のせいにしたということになってしまうのである。
「ひとのせいにしない」という言い方には、なんらかの不平不満を述べた人がいるなら、なんらかの不平不満を述べた人が「ひとのせいにした」と……「ひとのせいにしない」という言い方をされた人に、思わせる機能がある。
最初から、判断が含まれている言い方なのだ。
その判断というのは、なんらかの不平不満を述べた人がいるなら、なんらかの不平不満を述べた人が「ひとのせいにした」という判断だ。
「ひとのせいにしない」という言い方をした人が、どれだけ、認識しているのかはわからないけど、「人のせいにしない」という言い方をされた人は、自動的に「個別具体的な区別をしなくても」……人をせめている人が、人のせいにしている(悪い人だ)という認識がうまれるようになっているのだ。
たぶん、「ひとのせいにしない」と言った人も、「個別具体的な区別をしなくても」……人をせめている人が、人のせいにしている(悪い人だ)と判断している。
この言い方には、そういうところがある。
認識が紛れ込んでいるのである。判断が紛れ込んでいるのである。
「不平不満の対象になっている人には、責任がない」という認識が紛れ込んでいるのである。
たとえば、やった人を不平不満の対象になる人だとする。そして、やられた人が不平不満を述べた人だとする。
その場合、なにが起こったとしても、不平不満の述べた人が、「不平不満の対象になる人」のせいにしたということになってしまうのである。
責任の所在を、まったく考えないのである。
だから、ほんとうに、「不平不満の対象になる」人に、責任がある場合でも、とにもかくにも、不平不満を述べた人が、不平不満の対象になる人のせいにしたということになってしまうのである。こういう、言い方なのである。