2026年9月3日木曜日

●「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」■社会※2026/09/03 10:23

「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」という言い方があった。これ、けっこう、はやっていたのである。

「職業に貴賤はない」という言い方も、ある時期、はやっていた。

とりあえず、「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」という言い方について、語るとする。

「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」という言い方は「すべては自己責任」という言い方とおなじように、言われたほうが、いやな思いをする確率が高い言葉なのである。

そして、言っているほうは、いいことを言っているつもりになる言葉なのである。

わかる? これ!

支配者層がいるとする。非・支配者層がいるとする。非・支配者層のなかに、立場のちがいによって、非・支配者層(1)と非・支配者層(2)がいるとする。

その場合、「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」という言葉は、誰かが、誰かに、いやなことを押し付けるときに発せられる言葉なのである。言っているほうは、「正しいことを言っているつもり」なのである。

しかし、正しいとは、言えない場合のほうが多い。

へんな理屈が成り立っている。理論のすりかえが成り立っている。

「特殊な一例から、法則性がありそうな理論への飛躍」がある。「こういう場合があるから、すべての場合において、こういうことが成り立つ」と思ってしまうのだ。「これは正しい」と思っている人は、そう思ってしまう。

これらの言葉というのは、これらの言葉というのは、誰かが誰かに「理不尽なこと」を押し付けるときに言われる言葉なのである。

支配者層としては、そういう言葉が、はやっていれば、自動的に、非・支配者層(1)が非・支配者層(2)に、「理不尽なことを押しつける」ことになるから、楽なのである。

非・支配者層同士でそうすることになる。支配者層はかかわっていないように見える。

非・支配者層(2)が、非・支配者層(1)にうらみをもったとしても、うらみの対象は、非・支配者層(1)なので、支配者層は、うらまれることがない。支配者層は、あくまでも、見えない人として機能する。

理論的なことが考えられない非・支配者層(1)が、理論的に正しいと思って、それらの言葉を相手に言う。相手というのは、非・支配者層(2)なのだけど、非・支配者層(2)というのは、非・支配者層(1)よりも、少しだけ、立場が弱いそうなのである。

あくまでも、相対的なものだ。

たとえば、非・支配者層(2)が、就職活動をしているとする。その会社の面接官というのは、非・支配者層(1)であり、非・支配者層(2)よりも、相対的に立場が高い。あくまでも、相対的な高さが問題なのである。

ようするに、個人を中心にして見ると、「自分自身」よりも、立場が高い人間と、立場が低い人間がいる。絶対的な順番が決まっているわけではなくて、相対的な立場の高さと、立場の低さが、その場面において、決まっているだけなのである。

これは、てっぺんでなければ、だれもが、「はさまれる」ということになる。てっぺんの人だって、誰かのまえでは、過去のいきさつから、相手のほうが上だと考える場合だってある。まあ、ともかく、「やったり、やられたりして」暮らしているということだ。

「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」と言って、わかい人に、いやなことを押しつけることができるのである。「自分だってわかいときは、苦労した」と言えば、それで、「わかい人は、苦労を押しつけられて当然だ」ということになる。「買ってでもしろ」なのだから、苦労を押しつけられることを、歓迎するべきだということを言っているのである。

問題なのは、「わかいときの苦労は、買ってでもしろ」と他人に言っている人が、いいことをしているつもりでいるということだ。いいことを言っているつもりなのである。ほんとうは、理不尽なことを押しつけているのに、いいことをしていると思うことができる。こういう、しくみが成り立っている。

「職業に貴賤はない」という言い方にも、おなじことが成り立っている。相対的に、立場が弱い人に、いやな仕事を押しつけることができるのである。相対的に、立場が弱い人に「理不尽なことを押しつけることができるのである。

実際には、立場が弱い人に、理不尽なことを押しつけて、いやな思いをさせているのに、「職業に貴賤はない」と他人に言っている人は、「いいことをした」「いいことを言った」と思っているのである。こういう、しくみが成り立っている。

2026年9月2日水曜日

●ただ、本人が気がつかないだけだ■社会※2026/09/02 7:18

  じつは、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方は「すべては自己責任だ」という言い方とおなじで、他人をおいつめる言い方なのだ。条件が悪い人は、条件の悪さによって、さまざまな悪い出来事がしょうじる。条件が悪いから、条件の悪さによって、悪い出来事が(比較的に言って多く)しょうじる。悪さの程度も、条件が悪いので、程度が強いものになる。ひとくちに、悪い出来事といっても、程度に差がある。そして、悪い出来事が発生する頻度は、どうしたって、精神に影響を与える。ところが、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方は、悪いことが起こる原因を無視する。悪い出来事の程度を無視する。悪い出来事が起こる頻度を無視する。そして、ほんとうは、「すべては受け止め方の問題だ」と言っている人が、すべてを受け止め方の問題だとは思っていないのである。これが問題だ。手短に言うと、この人たちの「レベル」というのは「元気だと言うと、元気になったような気がするから、言霊はある。言霊は絶対だと思ってしまう人」の「レベル」とおなじだ。「元気だと言うと、元気になったような気がする」ということは、言霊があるという根拠にはならない。だいたい、本人は無視しているけど、じつは、「元気だと言っても、元気にならないこと」が、たくさんあるのである。言霊主義者だって、「元気だ」と言っても、元気にならないことが、ある。ところが、それは、無視されてしまうのである。こういう自我構造をもっているのである。幼児的万能感に支配された自我構造だ。都合がいいことだけを、見て、都合が悪いことは見ないようにするという、幼稚な考え方がある。都合がいいところだけを見て、法則化してしまうけど、その法則化には意味がない。意味がないどころか、有害なのである。常に、間違った方向にひとつを導く、こまった感覚なのだ。理性と推論の力によって、ほんとうは、克服しなければならないことなのである。ところが、無理なのだ。幼稚な思考によって、決めつけてしまう。断言してしまう。「これはこうだ」と決めつけてしまう。だから、「都合が悪いことは、見ないようにする」という体制が強固になる。問題なのは、本人が、そう思っていることを、他人に言うことだ。無責任な「自己責任論」とおなじで、無責任な「受け止め方の問題だ理論」は他人を傷つけるのである。これが、社会的な抑圧につながる。自己責任論でも、立場が相対的にいい人が、立場が相対的に悪い人に対して、その言葉を言うということになる。これ自体が、じつは、社会的な悪なのである。やられたほうは、むなくそ悪い気分になることが多い。やられたほうが、悪い条件を抱えていれば抱えているほど、この言葉を言われるということは、非常に不愉快なことになる確率が高くなるのである。そういう言葉を、悪い人たちが、はやらせるのである。悪い人たちは、尻馬にのった人たちと、計画的にやっている人たちの、二つのタイプがいる。この人たちは、計画を立てた側ではない。けど、計画に、意識的に、あるいは無意識的に、参加して、こういう言い方をはやらせるのである。無意識というのは、特に、「はやらせることを意識していない」という意味で、無意識という意味だ。フロイト的な無意識とはちがう。「元気だと言ったら、元気になったような感じがしたので、どういう場合でも、元気だと言うと元気になる」と思ってしまうのだけど、それは、間違っている。本人が気がついていないだけだ。説明のなかに出てくれいというのは、じつは限られている。「すべては、受け止め方の問題だ」と思っている人も、じつは、自分が受け止め方の問題だと思って、受け止め方をかえられることにしか、注目していない。ほんとうは、受け止め方の問題だとは思わず、受け止め方をかえようともしないことが多いのだ。ただ、本人が気がつかないだけだ。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。