『タンスのカドに足をぶつけたとき、頭をぶつけなくてよかった』と思ったり、『道路でころんだとき、ころんだだけで、事故にあわないでよかった』と思ったりすることが奨励されている。
何事もポジティブに考える人の例としてあげられることが多い。
しかし、そういう場合は、そういうシチュエーションが選ばれている。
「なになによりも、ましだから、よかった」というようなポジティブ・シンキングは、使われる場所が限られているのである。
こういう例は限られている。
そして、こういう人がいるという場合も、「こういう人」……いつもポジティブに感じることができる人は実際の場面では、普通に感情がしょうじて、普通に対応していることが多い。ネガティブな感情が発生しやすい場面では、普通に、ネガティブな感情が発生している。
ようするに、いつもポジティブに(変換して)考える人がいるという確信も、確信をもっている人が「ぬけぬけ」だから、いつもポジティブに(変換して)考える人が実際にいると感じているだけなのである。
そのポジティブな人というのも、普通のことに関しては、普通に反応している。
ぬけぬけだから気がつかないだけ。
ぬけぬけだから、『自分はいつもポジティブに反応している』と思っているだけだ。ぬけぬけだから、『いつもポジティブに反応している人がいる』と思っているだけだ。
ともかく、ポジティブに変換すればいいのだと言われる場面は限られている。
そして、いつもポジティブに変換できる(と言われている)人も、いつもは、ポジティブに変換していない。
考え方を書き換えるまえの……つまりポジティブに変換するまえの感じ方があるのだから、特に、注意が向けられないことに関しては、ポジティブに変換するまえの感じ方で感じている。
元の感じ方があるということ自体が、元の感じ方で感じるということを意味している。ようするに、元の心理的な反応を引き起こす、脳みその体系(シナプスの連合)が成り立っている。
最初の感じ方のほうが、「地」の感じ方なのである。
もし、地の感じ方がまったくない場合は、精神異常者になっている。地の感じ方が弱くなっただけで、躁状態になり、躁病になる。
「ポジティブに受け止めなおせばいい」という考え方は……おさえているところは、おさえて、不愉快に感じるところを、好意的に感じるようにすればいいという考え方なのだけど、おさえているところがおさえられなくなったら、病的な状態になってしまうのである。
おさえているところというのは、もともとの感じ方を生み出す部分なのである。このもともとの感じ方を生み出す部分が消失してしまったら、問題行動のオンパレードになる。
好ましい状態ではなくなる。
ようするに、選んで言っているだけだ。
ポジティブに書き換えられそうな場面が選ばれている。
「いつも」ポジティブに考えている人が、「いつも」ポジティブに考えているというのは、幻想だ。
この「いつも」というのは、ほんとうは、「いつも」ではなくて、そうできる選ばれた場面でポジティブに考えているということを意味しているだけだ。