2026年9月7日月曜日

●善意で言っているという問題がある■社会※2026/09/07 20:44

いちおうは、ほんとうに、善意で言っているという問題がある。

善意で言っているから、いいはずなのだけど、よくないのだ。

どうしてかというと、条件を無視しているからだ。条件を無視した言い方にしかならないのである。実際に、助言をしている人は、条件について「あまく」見ている。

ようするに、「そんなのは関係がない」と思っているのだ。

しかし、条件は、関係がある。

たとえば、非常に恵まれた家に生まれた人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんは、自分が恵まれた家に生まれたということを、無視しがちなのだ。どうしても、自分が基準になってしまう。自分の条件が「普通」だと思ってしまう。

よその人のことは、わからない。

また、お金持ちのうちに生まれた場合、まわりの人も、お金持ちの子どもなので、それが標準であるかのように思ってしまう。

たとえば、Aさんが医者の息子として生まれたとする。そして、医者の息子や娘が、ものすごく多い学校に入ったとする。

そうすると、まわりも経済レベルがたいから、まわりの経済レベルが、なんとなく、標準の経済レベルになってしまう。

そりゃ、医者の子どものなかにも、それぞれ、ヒエラルキーはある。だから、自分を中心にして、自分の親よりも、おカネがない親の子どもとか、自分の親よりも、おカネがある子どもとかと、くらべることになる。

自分の親よりも、金持ちの親がいるのだから、カネということについて考えると「(自分の家なんて)たいしたことがない」と感じることだってある。上には、上がいる。下もいるから、だいたい、自分は普通だと思ってしまう。

けど、人間の標準から考えると、あきらかに、よい暮らしをしているのである。

Aさんが、経済的に、だいぶ上のほうの親のもとに生まれたということには、かわりがない。

けど、なんとなく、自分の身の回りの人たちが、基準になってしまうというところがあるので、「(自分は)普通だ」と感じることもあるのだ。

「普通」の基準が上のほうにズレてしまうのである。

たとえば、非常に貧乏な家に生まれた人がいたとする。

この人をBさんだとする。

Bさんの父親も母親も、性格に問題がある人だったとする。ようするに、貧乏なだけでなくて、親の性格にも問題があったということだ。

その場合、Bさんは、いろいろなトラブルを(Bさんのせいではなく)経験することになる。

まあ、貧乏なだけでも、いろいろなトラブルを経験することになるから、貧乏な設定だけでもいいかな。おカネがないと、いろいろとみじめな思いをすることになるのである。いろいろと「自分の希望」が通らない経験をすることになるのである。

カネがないということは、自動的にそうなることを意味しているのである。

しかし、Aさんは、貧乏な家に生まれた場合の生活をしたことがないので、Bさんの実際の生活がわからないのである。

Aさんにとって、貧乏な家というのは、ドラマやニュースのなかで出てくる貧乏な家でしかないのである。

Aさんには、おカネがないということがもたらす、不愉快な経験がない。Aさんには、おカネがないということがもたらすトラブルがないので、トラブルが実際にしょうじたときの心の動きがわからない。

おカネがないということは、おカネがないということだけを単体で意味することではなくて、実際には、「文脈」がある。生活の中の出来事には、文脈がある。

この文脈にそった、一連の出来事がしょうじているときの「気分」「気持ち」「感情」が、わからないのだ。

つまり、ただ単に、おカネがないということは、ただ単に、おカネがないということを意味しているのではなくて、おカネがないことからしょうじる出来事があり、その出来事は、文脈をもっている出来事なのだ。

実際に、おカネがないということからしょうじるトラブルを経験したことがないAさんには、一連の出来事がしょうじているときの「気分」「気持ち」「感情」が、わからないのだ。

けど、わかったつもりになることがある。わかったつもりなのである。

そりゃ、かわいそうなニュースを聴けば、かわいそうだと思う。かわいそうなドラマを視れば、かわいそうだと思う。思う。思う。

けど、生活実感はない。

必然的に発生する一連のプロセスを経験したことだってない。

Aさんの親が、「これはいくらなんでも、買え与えすぎだから、これは買ってあげない」という判断をしたとする。そういうことだってあるかもしれない。

Aさんの親がおカネ持ちで、Aさんの親が性格のいい人であったとしても「これは、いまは、A君には必要がない」と判断する場合だってあるだろう。

だから、Aさんにも、「買ってもらえなかった」経験があるとする。

けど、それと、Bさんの「買ってもらえなかった経験」というのは、ちがうのである。

頻度も質もちがうのである。

Aさんが「自分だって買ってもらえなかったことぐらいある」という言葉で、同質化、同レベル化することはできない。

ほんとうは、できない。

けど、Aさんの感情としては、まさしく、そういうふうに言えることなのである。「自分だって買ってもらえなかったことぐらいある」と言えることなのである。

しかし、Aさんの生活感情と、Bさんの生活感情は、異なったものになる。

繰り返して起こることが重要なのだ。

そして、家にカネがあるかどうかで、起こることの質がちがってくるのである。

Aさんは、「自分だって買ってもらえなかったことがある」と言うけど、Bさんが頻繁に経験してきたことを経験していないのである。「買ってもらえなかった」としても、シチュエーションにちがいがある。

プロセスにちがいがある。つまり「文脈」にちがいがある。

Bさんが頻繁に経験したトラブルを経験していない。

これ、トラブルなんだよ。トラブルの頻度とトラブルの質は、重要だ。

おカネがあれば、解決できるトラブルがある。おカネがあれば解決できる不幸なことがある。貧乏な家の子どもは、おカネがあれば解決できるトラブルを、頻繁に、経験してしまう。

裕福な家の子どもは、おカネがあれば解決できるトラブルを、めったに経験しない。

「親」が「あるもの」を買ってやらなかったとしても、各親によって、感情のちがいがある。各親によって、態度のちがいがある。おなじ体験ではないのだ。

だいたい、「家にあるもの」がAさんとBさんでは、根本からちがうのである。

Aさんの親が必然的に買い与えていたものをBさんの親は全部、買い与えなかったかもしれないのである。

レベルちがう?あるものについて、Aさんが「自分だって買ってもらえなかった(ことがある)」と言ったって、それで、Bさんとおなじ状態で、おなじ事柄を経験してきたなんてことは、言えない。

しかし、たとえば、初老になったAさんが、しあわせに暮らしていたとする。

そうしたら、不幸な人たちに、しあわせになるコツを教えてあげようと思っても不思議ではない。

なので、Aさんの生活実感で、ものを言ってしまう。Aさんが自分がしあわせになったのは、人に親切にしてきたからだと思ったら、「人に親切にすれば、しあわせになる」と言ってしまう。

善意だ。

しあわせになるコツを、不幸せな人に教えてあげるのだから、いいことだ。

Aさんは100%構文で、効果がありそうなことを言ってしまうのである。Aさんは(自分とほかの人の)条件を無視している。

Aさんは、条件を無視した言い方を採用してしまうのだけど、それが、問題だとは思えない。

だから、ここでずっと述べてきたような、トラブルがしょうじる。

●人に親切にすることで、不幸な状態がくつがえらない■社会※2026/09/07 15:38

「小さな親切」と言うと、いい感じがするけど、じつは、「小さな親切」に分類されることは、案外少ない。「大きな親切、大きなお世話」という言葉があるように、「大きな親切」というのは、あんまりいい感じがしない。条件を無視した助言をする人にとっては、助言をすることは、親切な行為なのかもしれないけど、条件を無視しているという点において、親切な行為ではないということになる。

じつは、親切にする場合、自分がどの程度の犠牲を払うかという見積もりがなされている。負担について考えるのだ。だから、「人に親切にする」というのは、じつは、種類が限られたものになる。一時的なものであり、自分の負担が(無視できるほど)小さなものなのである。

「人に道を訊かれたら、道を教えてあげる」「席を譲ってあげる」「ものをとってあげる」「重い荷物をもっている高齢者を見たら、重い荷物をもってあげる」といったようなものだ。自分の負担がない状態でできるのである。そして、「人に親切にすると、気持ちがいい」と表現されるように、「気持ちがいい」ものなのである。だから、「自分が気持ちよくなる予感(見積)」と「今後の自分に負担がかからないという見積もり」があるのである。

人に道を訊かれる機会は、スマホの発達によって、だいぶ少なくなっている。もちろん、訊かれて、道を知っていたら、普通に教えてあげる。けど、だから、運がよくなるというようなことは、ない。たとえば、ぼくが、毎日、きちがい兄貴の騒音にたたられているとしよう。ある日、道を訊かれたので、ちゃんと教えてあげた。だから、運がよくなって、兄貴がきちがいヘビメタをやめてくれるかというとそうではなかった。もちろん、これは、ひとつの例なのだけど、関連性がないのである。「運がよくなる」と言い方には、関連性がない二つ以上の出来事が結びつけられているのだ。Aという行為をしたから、Bという出来事が発生したという関係が、頭のなかに成り立っていなければならないのだ。ところが、よくよく考えてみると、じつは、ふたつの出来事のあいだに、関連性がない場合が多い。兄がヘビメタを爆音で鳴らすという出来事と、ぼくが、道を訊かれて、道ついて教えてあげたという出来事は、関連がない出来事なのである。しかし、「親切にすれば、運がよくなる」という言い方のなかでは、「親切にしたことによって」「自分を苦しめている出来事がなくなる」というような関係性が、提示されるのである。あるいは、「親切にすること」によって「なにかいい出来事が起こる」ということを提示しているのである。不幸が解決するか、あるいは、幸福になるような出来事があるということを、「親切にすると、運があがる」という言葉は、示唆している。明示しているし、暗示もしている。しかし、「理由になること」ではないのである。親切にして、気持ちがよくなったということは、「理由になること」だ。道を訊かれたので教えてあげた。だから、気持ちがよくなった。「道を教えてあげた」という出来事と「気持ちがよくなった(幸福な気分になった)」という出来事の関連性があるのである。しかし、それ以外のことに関しては、じつは、(道を訊いた人との人間関係でなにかいいことが起こる)ということがなければ、関係がないことなのである。「親切にしてあげた」という出来事と、「なにかの出来事」のあいだに、じつは、関連性がないのである。関連性がないのだけど、関連性があるように見せかけているのである。「運がよくなる」というのは、ほんとうは、関連性がないことについて語っている。ほんとうは、関連性がない二つ以上の出来事に、妄想的な思考をして、関連性があると、決めつけている。根拠がないのに、じつは、関連性を結び付けている。この場合、「人に親切にすると、幸福になる」というような100%構文の文で表現してしまうと、実際には、100%の確率で起こることではないので、現実とのギャップがうまれるのである。そりゃ、関連性がないことに、100%の関連性があるということを言っているのだから、そうなる。「根拠」がないのである。「理由がない」のである。「親切な行為をした」ということと「なにか(良いことが起こる)そして、幸福になる」ということの関連性がないのである。じつは、出来事同士の関連性がないのに、勝手に、出来事同士の関連性をつくっているだけなのである。頭のなかで、つくっている。本人が、そう感じるのは自由だけど、他人に、あたかも、有効な問題解決方法のように言うのは、よくないことだ。どうしてなら、関連性がじつはないからだ。じつは、「親切にする」という行為に関しては、そのときに、「親切にしたという気持ちになって」本人が気持ちよくなること以外の関連性はない。「親切にした」という出来事と、「親切にしたと思って気持ちよくなった」という出来事のあいだには、関連性がある。しかし、「親切にした」という出来事と「ほかの幸運な出来事」のあいだには、関連性がないのである。

じつは、普通に親切にしてあげている、不幸な人がいる。親切なのに、不幸な人がいる。この人が不幸なのは、不幸な条件によって、不幸な出来事が発生するからなのである。人に親切にしていないから、不幸な出来事が発生しているわけではないのである。不幸な出来事が、かなりの高確率で発生する条件下で暮らしていれば、「幸福感」は、なかなか感じることができない。そりゃ、不幸な条件下で暮らしているけど……人に親切にしたとき、親切にしたという気持ちになって、幸福感を(一時的に)感じることはある。しかし、そのことが、不幸な条件をかえないのである。不幸な条件は、そのまま成り立っているので、かなりの高確率で、不幸な状態で暮らすということになる。幸福ではない状態で暮らすということになる。人に親切にすることで、不幸な状態がくつがえらないのだ。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。