まあ、どれだけ、わかいころの体にもどりたいと思っても、もどれるわけではないね。
時間は、かえってこない。
けっきょく、ヘビメタ騒音にやられて、ほんとうに、普通の人にはわからないレベルの、苦痛を感じた。ヘビメタ騒音にやられて、ほんとうに、普通の人にはわからないレベルの、やるせなさを感じた。
これ、ほんとうに、しかたがないことなんだよな。
きちがい兄貴が、普通の兄貴だったら、普通に静かにしてくれるのに、きちがいだから、絶対の意地で普通の兄貴が鳴らさないような音で、ガンガン鳴らしていた。
でっ、一秒もゆずってくれなかった。一日に、一秒もゆずってくれなかった。
全部の時間を、自分が使うつもりで鳴らした。
きちがい兄貴は、きちがい親父のように、「相手が自分の行為でこまっているということが」ほんとうにわからない人間なのだ。
まったく、脳みそに入ってこない。そもそも、そういうことに対応した脳みそがない。だから、頑固にやりきる。頑固にやりきるけど、それで、相手が、こまっているということが、まったくわからないので、相手がこまるような行為を自分がやっているという意識が、まったくしょうじない。
普通なら、「うるさいからやめてくれ」「宿題ができないからやめてくれ」「遅刻するようになるかやめてくれ」「夜眠れなくなって、朝、適切な時間に起きることができなくなるからやめてくれ」と言われれば、理屈だけはわかる。
自分が、どれだけ(でかい音で鳴らしたくても)理屈だけはわかる。
ところが、だれもがわかるその理屈が、きちがい兄貴は、わからないのだ。すり抜けてわからない。何十万回言われてもわからない。一日に、何十回、言われたってわからない。
言われたときに、腹を立てて、(相手が言っていることを理解する前に)はねのければ、それで、終わっていることなのである。
相手が言っていることを「意識のレベルで理解する前」にはねのけている。けど、ほんとうに、理解していないのかというと、そうではないのだ。意識との……結びつきがないだけなのだ。
ほんとうは、理解したら、しずかにしてやらなければならなくなるから、理解しないという状態だ。ほんとうのことを理解したら、ほんとうに普通のレベルで、ちゃんと静かにしてやらなければならなくなる。
それが、絶対にいやなのだ。きちがい親父が、やっていることとおなじなのである。たとえば、はんだごて事件のとき、普通の親なら、絶対に理解できることを、理解しなかった。大の大人なら、知的な障害がなければ、絶対に理解できることなのである。ところが、理解しない。理解してしまうと、新しいハンダゴテを(兄貴のために)買ってやらなければならなくなるからだ。それが絶対に嫌なのである。だから、新しいハンダゴテを(兄貴のために)買ってやらなければならなくなるようなことは、理解する前にはねのけて、わからない状態をつくってしまうのである。無意識のレベルでは、相手が言っていることがわかっているから、そういう反応になる。無意識のレベルでは、もし、自分が相手の言っていることを認めてしまったら、新しいハンダゴテを(兄貴のために)買ってやらなければならなくなるということが、「わかっている」ので、逆に、意識のレベルでは、相手が言っていることを(真っ向から認めないで)きちがい的な自分の意見を絶叫して、相手の言い分をはねのけるということをするのである。親父の場合、竹事件でも同じことをしたんだよ。ただ、はんだごて事件と、竹事件だとちがうところがある。絶叫したか、絶叫しないかの違いだ。緘黙方式のときも、頭のなかで起こっているとはおなじなのである。でっ、きちがい兄貴も、ほんとうは、自分が鳴らしている音が「でかい音だ」ということがわかっているからこそ、「でかい音だ」ということを認めることを事前に削除してしまったのである。無意識的には「でかい音で鳴らしている」ということがわかり、「相手がこまっていること」もわかるのだけど、それを意識レベルで認めてしまうと、実際に、自分が(不愉快に感じるレベルで)我慢しなければならなくなることがわかっているので、無意識的にはねのけて、意識には入り込まないようにしているのである。意識には、入り込まないようにしたのである。この過程が、無意識のレベルでおこなわれることなのである。だから、意識的な自分……意識的な兄貴本人は、まったく、悪いことをしているつもりがないのである。相手……ここれでは、弟のエイリが、どれだけこまっているからやめてくれと言っても、弟のエイリがこまっているという部分が、(意識のなかで)すっぽ抜けることになる。だから、すっぽ抜けたことに関しては、一切合切、自分が関知していない状態になってしまうのである。自分の行動だし、自分の行動について、言われたということがわかるのだけど、それを理解しているのは、無意識のレベルの兄貴なのだ。だから、意識のレベルでは、自分の行動だし、自分の行動について、言われたということ……自体が……丸ごとすっぽ抜けことになる。だれだって、絶対にわかることなのに、認めないのである。普通は、耳が正常なら、本人の耳が悪くなるようなでかい音で鳴らせば、でかい音で鳴らしているということが、感覚的にわかる。否定することができないレベルでわかる。ところが、本人にとって都合よく、わからないことになってしまう。だから、まるで気にしないで、ずっとやってしまうのである。何十回、その日に「やめくれ」「こまるからやめてくれ」「宿題をやるからやめてくれ」「次の日、起きれなくなるからやめてくれ」「明日は、中間テストだからやめてくれ」と言われたって、そんなのは、素通りなのである。まったく理解しない。ぜんぜん理解しない。自分がやっている感じがしないので、自分に関係があることだと、どうしても、思えない。きちがい兄貴が、でかい音で鳴らしたいから、でかい音で鳴らしているのだけど、なにを言われても、それがわからない状態になってしまうのである。こういう状態でやれば、相手がいやがっていることをやっているわけではないという(意識のまま)相手がいやがっていることを(相手が何を言ってきても、認めずに、)頑固にやりきることができる。きちがい兄貴にとって、高校生活と、浪人時代生活と、大学生活と、社会人生活はそういう、生活なのである。だから、何度も言うけど、悪気がないのである。そして、きちがい兄貴は、きちがい親父とおなじ頭をもっているので、「ゆずる」ということに関しては、おなじことをするのである。これ、詳しく書いたことがあるので、今回は省略するけど、「ゆずる」ということも、きちがい的な感覚で譲ることになるのである。ほんとうは、まったくゆずってないのに「ゆずってやった」と思える脳みそなんだよ。こんなことを、無意識的に?やる。ようするに、ほんとうだったら、意地悪としてやるようなことを、ほんとうに、ゆずるつもりでやるんだよ。たとえば、兄貴にとっては、〇・〇〇〇〇一デシベルだろうと、ゆずってやったら、ゆずったことになるんだよ。〇・〇〇〇〇一デシベルの譲歩なんて意味がないんだよ。〇・〇〇〇〇一デシベルゆずった音でも、ものすごくでかい音だから、ゆずってもらった意味が(こっちには)ないわけ。けど、きちがい兄貴本人が、〇・〇〇〇〇一デシベルでも、しずかにしてやったら、それは、ものすごくゆずってやったことになるんだよ。こういう態度になるんだよ。自分が満足できる音で鳴らすということは、きちがい兄貴のなかで決まっていることなので、自分が満足できる音で鳴らすということを、維持したまま、ゆずるわけ。そんなの、ゆずったことにならないのだけど、きちがい兄貴にしてみれば「ゆずってやった!!!!ゆずってやった!!!!ゆずってやった!!!!ゆずってやった!!!!」ということになる。これは、きちがい親父のハンダゴテとおなじなんだよ。きちがい親父がもってきたハンダゴテというのが使えないハンダゴテなんだけど、ハンダゴテを持ってきてやったのだから、いいということになってしまうのである。そのはんだごてを持って行けばいいということになってしまうのである。親父としては、新しいハンダゴテを買ってやるカネを出すことが、意地でもいやなんだよ。この部分に親父の行動は、対応している行動なんだよ。兄貴の行動というのも「自分が満足できる音でずっと鳴らしきる」ということが、まず最初にあって、その部分に対応した行動をすることになる。そうすると、〇・〇〇〇〇一デシベルゆずってやるということになる。〇・〇〇〇〇一デシベルゆずってやっても、自分が満足できるでかい音で鳴らす……という部分がくずれない。この部分が無傷なままなのだ。自分のほんとうの欲求は、どんな汚い手を使っても、満たそうとするのだ。それが、無恣意的な過程でおこなわれることなんだよ。だから、「せっかくゆずってやったのになんだ!!」と言って、元の音にもどしてしまう。けど、ゆずってやった音も、元の音も、きちがい兄貴の耳をヘビメタ難聴の耳にするぐらいのでかさの音で鳴っているわけ。ものすごく、でかい音で鳴っているんだよ。
一秒間だろうが、ほんとうに静かにしてやることは、ないのである。一秒間だろうが、ほんとうに静かにしてやったら、負けだと思っている」というような感じで、きちがい的な意地を張って、しずかにしないのである。けど、それが、無視行的なレベルでおこっていることだから、意識のレベルでは、そんなことをしているつもりがまったくないわけ。ほんとうにゆずってやった気分になっているんだよ。きちがい兄貴がゆずってやったと音というのは、よそのうちでは、一分間だって鳴らせないような音だ。