『毎日、おせいぼーーの日にすれば、人はしあわせになるのだろうか?』ということを言いたかった。毎日、おせいぼーーの日にしても、すべての人間がしあわせになることはないのである。
人によって、ちがうのである。
人……は、ものをほかの人にあげるとき、しあわせな気持ちになる。しあわせになる。
人……は、ものをもらうとき、しあわせな気持ちになる。
だから、すべて人がすべての人にものをあげれば、しあわせになれる。原理的には、すべての人間が、すべての人間に、ものをあげるようにすれば、すべての人間が幸せになれるのである。
ところが、すべての人間がしあわせになることはない。どうしてかというと、「条件がある」からだ。
「ものをあげる」を「親切にする」に置き換えてもおなじなのだ。
毎日、親切デーにして、重複せずに、だれかに、親切にするようするとする。親切にするとしあわせになるのだし、親切にされると、しあわせになるのだから、理論的には、すべての人が、すべての人に(重複なく)親切にすれば、すべての人間がしあわせになれるのである。
ところが、そうじゃないのである。「条件がある」からだ。
空想世界で、人に親切にするときの気持ちを考えたり、人から親切にされたときの気持ちを考えると、みんな、しあわせになりそうな気がするのである。
ところがちがうのだ。条件がちがうからだ。
個々人が抱える条件がちがうからだ。
そして、じつは、「親切行為」というのが、一意には決まらないものであり、「親切行為」というものが、なんなのかは、人によってちがうし、条件によってちがうから、「親切行為」をするつもりの人が、「親切行為」をしても、その親切行為とされるものをされた人が、「親切にされた」と感じるかどうかは、わからないということになる。
空想世界で考えていた時の親切行為というのは、その親切行為をされたほうが、かならず、親切行為をされた認識するような親切行為なのである。
考えるときに、自動的に、そういうものとして想定されてしまう。
しかし、現実社会では、親切行為の内容は、決まっていない。相手が、その親切行為を迷惑行為だと感じることだってある。
こっちが「やってほしくないこと」を、「やってやる」 「やってやる」「やってやる」としつこく言う人だっている。「やってほしくないことをやられると」腹が立つ確率が非常に高い。
その場合、親切行為をされたほうは、不愉快な気持ちになり、しあわせな気持ちにならない。
空想世界で考えていることと、現実世界の現実は、ちがうのである。
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空想世界で、抽象化した言葉を使って、自分の経験をもとに考えると、100%構文の文になってしまうのだけど、それが最初から、まちがっているのである。最初から、まちがっている。抽象化した言葉を使うということの意味が、この人たち……100%構文の文で言い切ってしまう人たちには、わからない。わかっていないんだよな。
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「プレゼント」というところまで抽象化すれば、プレゼントしておくられるものは、すべて「プレゼント」だということになってしまう。
個別具体的なものは、この場面では、姿を消して、だれにとっても「好ましいプレゼントであるようななにか」になってしまうのである。
自分の経験というのは、たとえば、自分がプレゼントをあげたときに、しあわせな気持ちになったとか、自分が相手のことを考えてプレゼントを選んでいるときに、しあわせな気持ちになったとか、自分が、だれかから、プレゼントをもらったとき、しあわせな気持ちになったということだ。
そうなると、プレゼントをあげるときや、プレゼントを選ぶときや、プレゼントをもらうときは、「人は」しあわせになるのだと仮定してしまう。まあ、仮定などというなまやさしいものではなくて、「事実そうなる」と言い切ってしまう。
けど、この時点で、主体が自分なのか、主体が全人類(人間)なのかということが、明確に意識されているわけではないということになる。
自分がそうだったから、残りの人類もみんなそういうふうに感じるはずだという、前提が、まぎれこんでしまう。
しかも、残りの人類もみんなそういうふうに感じるはずだという前提は、個々人の条件を考えると、間違っている可能性がある。間違っている確率は、非常に高い。
この時点で、「自分がそうだから」「人類もそうだ」と考えてしまうのは、問題がある行為だ。しかし、問題がある行為だとは、考えないのである。
どうしてなら、「自分がそうだから」「人類もそうだ」という前提が正しいと思っているからだ。何度も言うけど、現実世界には、いろいろな個人がいる。
その個人の条件が、みんな、ちがうのである。
細かく条件を考えれば、ほんとうに、だれひとりとして、おなじ条件の人はいない。主要な条件だけを、大雑把に考えるなら、おなじ条件の人はいるということになるけど、それは、主要な条件だけを、大雑把に考えるならおなじ条件だと言えるだけだ。
ほんとうは、まったくおなじ条件を抱えている個人なんていない。だから、まったくおなじ条件を抱えている個人なんていないということを明確に意識しておくべきなのだ。
しかし、「プレゼントをあげる」ということや「プレゼントをもらう」ということを抽象化して考えているとき、「人間」というのも、「自分」にあわせて、抽象化して考えてしまうのである。
なので、「キーワード」と「人間」に関する抽象化がおこなわれているということは、意識しなければならない。「キーワード」というのは、ここでは「プレゼント」だけど、「苦労」といったものも、含まれる。
「苦労」「困難」「生きがたさ」「努力」……という言葉は、全部、抽象化された言葉だ。