これからさき、たとえ、理想の女の子と暮らすことができたとしても、ぜーーんぜん、おもしろくないのだ。もう、そういうところまで、こころが消耗してしまった。デザイン関係のことも、興味がなくなってしまった。パソコン関係のことも興味がなくなってしまった。ともかく、ダニやネズミから解放されたい。痛みや苦しみや痒さから、解放されたい。しかし、しかし、かりに、痛みや苦しみや痒さから解放されても、ぼくは、つらいままなのだ。おもしろくない。きちがい兄貴にやられすぎた。きちがい兄貴が、きちがいモードで、きちがい感覚で、きちがいの音をガンガン、最大限の音で鳴らしているとき、ぼくが消耗した。きちがい親父のネズミが、追い打ちをかけた。ほかの人はどう言うか、知らないけど、あんなきちがい騒音生活が七年以上続いたら、どんな簡単な仕事でも、どんな短時間労働でも、できなくなる。基本、「通勤」の必要があるところに関しては、たとえ、一日に二時間だろうが、むりだ。完全にむりだ。普通の人の体力感覚で言えば、二〇倍、働いてくれと言われたのとおなじ状態になる。一日に残業を四時間やっている人が、二〇倍の仕事をしてくれと言われたのとおなじ状態になる。まあ、一日・二四時間として考えると、そもそもがむりな設定なのだけど、「二〇倍働いてくれ」と言われたら、むりだと思うだろう。「元気だ元気だ」と言えば元気になると言っている人も。実際に、一日にやっとこなせる量の、二〇倍の量をおしつけられたら「そんなのはむりだ」と言うだろう。きちがいヘビメタで、「仕事体力」と言うべきもの、「生活体力」と言うべきものを、毎日、ガンガンけずられて無理な生活をしてきたぼくには、普通に働くというのは、土台むりなことになっている。普通の人が、「二〇倍の分量、働いてくれ」と言われたら「むりだ」と思うだろう。普通の人の分量働くということが、きちがいヘビメタにやられた俺には、むりなことなのだ。土台、むりなことだ。けど、それが、毎日毎日、きちがいヘビメタ騒音にやられたなかった人間には、わからないことなのだ。そりゃ、経験していないからわからない。ほかの人の身の回りには、きちがい家族のような家族がいないのである。これがでかい。これが感覚のちがいをつくりだしている。俺だって、きちがい兄貴が、きちがい的なレベルで、ヘビメタにこだわらなければ……思いっきりヘビメタを鳴らすということにこだわらなかったら、普通に、普通の量の仕事ができる体力があった。能力があった。けど、その体力と能力をうしなった。けど、体力と能力をうしなう過程というのが、ほかの人にはわからないのである。体力とと能力をうしなう過程は、ぼくにとっては、自明のことだ。そりゃ、学校に行くという普通のことが、二〇倍仕事量の行為になってしまう。むりにむりをかさねてやっていることになってしまう。それは、おなじ生活をしてみればわかることだ。普通の人だって、自分のきらいな音をあの音のでかさで、あの時間の長さ、あの期間の長さ、聞かされ続けたら、生活が、無茶苦茶になるということがわかるのだ。体力と能力をうしなうということが、わかるのだ。ところが、一倍速で意見していないのでわからない。ぜんぜん、自明のことではないのである。一般人にとって……普通の人にとって……普通の家族に囲まれて生活している人にとって……自明の理ではないのである。どうしてかというと、普通に暮らせていたからだ。きちがい家族による騒音にさらされずに、暮らしてきたからだ。普通の人だって、騒音はあるけど、きちがい家族の騒音は、普通の騒音ではないのである。
言霊主義者にとって、相手が言っていることは、記号だけの理解にとどまるのである。たとえば、普通の仕事をしてつかれている人と、二〇倍の仕事をしてつかれている人には、差がある。「つかれ」において、普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人のあいだには、差があるのだ。ところが、言霊主義者の理解だと、どっちも「つかれているんだな」という理解になってしまうのである。「つかれている」ということは、理解できるのだけど、つかれの差は、理解できないのである。あるいは、ガン無視してしまう。言霊理論が、まっさきに頭に浮かぶからだ。言霊理論は、「言えば、言ったことが現実化する」というものだから、「元気だ元気だと言えば元気になる」はずなのである。だから、普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人に、「元気だ元気だと言えば元気になる」と言ってしまう。もちろん、言霊主義者にとっては、善意のアドバイスだ。しかし、「つかれの度合い」を無視したアドバイスになってしまうのだ。普通の仕事をしている人と、二〇倍の仕事をしている人のあいだには「つかれかた」の差がある。おなじじゃない。同じレベルの疲れを感じているわけではない。しかし、言霊主義者は、程度のちがいを無視して、…「どちらもつかれているんだな」と思うだけなのである。言霊主義者の頭のなかには、程度の差がない「つかれ」しか、浮かばない。どの程度つかれているのかということは、無視されてしまう。程度は無視して、「つかれ」として理解するだけなのだ。「つかれているなら」……「元気だ元気だと言えば元気になる」とアドバイスをしてあげればいいということになってしまう。言霊主義者のなかでは、そうなってしまう。