2026年7月18日土曜日

●自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論■社会※2026/07/18 8:16

『他人の身に起きたことは、他人の責任だ』の続きをちょっと書こうかな。

『自分の身に起きたことは、すべて自分の責任だ』という考え方が『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』という考え方に置き換わってしまうのだ。

その場合、自分が他人に、なにか悪いことをやったにしろ、他人の身に起きたことは、他人の責任だということになる。自分がなにか悪いことを他人にしたかどうかの判定というのは、たいていの場合、自分がすることになる。裁判所で決着をつけるときもあるけど、たいていの場合は、本人の主観に任されたことなのである。

なので、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つとは限らない。

ところが、これもまた、自分が他人に対して、悪いことをした場合、かならず、自分は他人に対して悪いことをしたという主観的な認識を持つはずだという前提が成り立っているのだ。

だから、自分が相手になにか悪いことをした場合も、基本的には、『他人の身に起きたことは、すべて他人の責任だ』ということになってしまう。「すべては自己責任」という考え方は、基本的には、自分が被害を受けたと感じるときにどう思うことにするということに対応している。

なにが起きても、自分の責任だと考えることによって、相手をせめる気持ちがなくなるというのが、本来の、自己責任論の在り方だった。

それは、自分に対する自己責任論だったのである。ところが、他人の身に起きたことは、すべて(その)他人の責任だという自己責任論にすりかわっていくのである。

この場合、『他人の身に起きたことは、すべて、(その)他人の責任だ』と考えているわけだから、他人の落ち度をせめることになる。自己責任論ではなくて、他人責任論になってしまう。その他人に「落ち度がない」場合も、じつは「落ち度がある」と判定されて、その他人のせいになってしまう。

この場合、被害者側にも落ち度がある……に……決まっているという考え方が成り立っている。そして、被害者がの責任を追及するわけだけど、加害者側の責任はまったく追及しないのである。

加害者は、「自己責任論」において、「自己」ではないのだ。

わかるかな?

加害者側だって、いつも加害者であるわけではなく、ある特定のことについて、加害者側になっただけだ。こころの道徳としては、自分の行為が、相手に与えた影響を考慮しない場合は、ほんとうに他人に危害を加えた場合も、『自己責任論の範疇外』になるのである。

わかるかな?

法的な裁きがくだっった場合、加害者であるということが、決定される。それは、法的な手段なのである。この法的な手段は、『こころのなかの道徳』に影響を与える場合もあるけど、まったく影響を与えない場合もある。

ようするに、感じ方については「個人の王国」なのである。個人が、たしかに自分は相手(他者)にこれこれこういう被害を与えたということを認識しなければ、『こころのなかの道徳』には影響を与えないのである。

その場合、自己責任論だと、ここで想定されている加害者側人は、責任を感じなくてもすむのである。

自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論なのである。

自分が、被害を与えた(かもしれない)という場合は、被害を与えたという道徳的で主観的な認識がなければ、自分が、被害を与えたということにはならないのである。

外側で、法的に処理をされたとしても、本人の道徳的で主観的な認識はまったくかわらないかもれしない。

どういうことで他人に迷惑をかけるかということに関する考え方は、個人によって千差万別だ。個人によって、ぜんぜんちがうのである。だから、他人に迷惑をかけたということに、鈍感な人は、他人に迷惑をかけた場合でも、まったく自己責任を感じないということになる。

*     *     * 

自己責任論の基盤は、自分が相手の行為によって、被害を受けたと主観的感じる側の人が、自分の責任だと思いなおす場合の……責任論なのだ。だから、自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人は、そもそもも、その行為に関する責任なんて、感じないのである。

そして、自己責任論というのは、(外側から見れば) 自分が相手に危害を加えたということや、自分が相手に迷惑をかけたという主観的な認識がない人を援護する理論なのである。そういう「自己責任論」に切り替わっている。 

*     *     *

自分が(被害を与えた)場合は、そもそも、自己責任論の範疇外ということになる。自分が(被害を与えた)場合は、「自己責任論」ではなくて、単なる「責任論」になる。こういうところに、トリックがある。

*     *     *

自己責任論は、あくまでも、自分が(被害を受けた)ということに関する責任論だと書いたけど……自分が被害を受けたということに関しては、社会制度的な被害も含まれる。ともかく、主観的に「自分が被害を受けた」と感じることに関しては、自己責任論の対象になる。そして、自己責任論のなかでは、「自分が他者から被害を受けた」ということは、否定されるのである。ようするに、否定されることが、理論的に決定されている。

だれか、個人が自分にしてきたことに限らず、たとえば、社会制度的に自分が被害を被ったということを感じた場合は、自己責任論の対象になるということが重要だ。

なんらかの制度で、自分が不利な立場になったということに関する自主的な認識も、「自己責任論」の対象になるのである。

そして、「自己責任論」のなかで、その自主的な認識は否定されるのである。

「たとえ、制度的に不利な扱いを受けたとしても、それは、自分の責任なのだ」と思い直すための理論なのだ。『思う』のではなくて、『思い直す』のである。

ようするに、自己責任論のまえに、なまの感覚として、「こういう不利益が生じた」という感覚が、まず成り立っている。

●関係あるよ■騒音※2026/07/18 1:52

眠れたので、どうにかなった。

しかし、あいかわらず、喉がかわいているし、あいかわらず、腹の調子が悪いし、あいかわらず、問題が山積している。もう、つかれたなぁ。あいかわらず、つかれている。

けど、ちょっとは、すっきりした。

どうするかな。ほんとうに、つかれた。ヘビメタ騒音がつみかさなって、つかれた。ネズミ問題、ダニ問題がつみかさなって、つかれた。これ、体調に影響があるんだよ。体の状態に影響がある。歯医者に何回も、時間通りに行くということ自体が、できなくなる。

歯医者だけではない。

もちろん、バイトに行くとか、就職して普通の時間、普通に働くということに、影響がある。影響があるというよりも、破壊する。睡眠回路のズレ、長期間にわたる疲労の蓄積……。関係あるよ。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。