思考スタイルというものが問題になる。
たとえば、多くの言霊主義者は、例をあげられたあと、「このように、言えば言ったことが現実化する」ということを言われると、「言えば言ったことが現実化する」ということが、正しいと思ってしまう。
一方、日常生活のなかでは、最初から、言って現実化するということをあきらめていることがあるのだ。
しかし、それにも気がつかない。気がついたあと、無視をするのではなくて、最初から、気がつかない。
十円玉が(下方向に)落ちるのは当たり前だと思っているのだ。「十円玉は、どこまでもどこまでも、上にあがっていく」と言ったって、そんなことは、起こらないと確信している状態で、暮らしているのである。
ようするに、「言えば言ったことが現実化する」ということを信じていないのである。
とりあえず、「矛盾・鈍感思考」と呼ぶことにする。いままでは、「ぬけぬけだ」と表現してきたことだ。
例をあげられたあと、全体的な命題について語られると、全体的な命題が『真』だと信じてしまう思考のことを、とりあえず、「例・全体思考」と呼ぶことにする。
もともと、幼児的全能感があるので、幼児的全能感と結びつきやすい命題は、受け入れやすいの土台がある。
だから、例を挙げられると「XをすればYになる」という全体的な命題を真だと思ってしまう。ようするに、「XをすればYになる」と思い込んでしまう。
ようするに、洗脳したいと思っている人からすれば、こういう人たちは洗脳しやすい人なのである。
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たとえば、「すべては自己責任だ」という考えをはやらせたい場合、「例・全体思考」の持ち主が、いっぱい、いっぱーーーい、いたほうが、都合がよいのである。
ひとつ、例を挙げて、全体性について語ると、全体性のほうを信じてしまう人たちがいるわけ。
しかし、ほんとうは、全体について成り立つことではないのだ。「例・全体思考」の例として挙げられることは、じつは、限られている。狭い範囲で、限られた例を挙げられると、それが、あたかも、広い範囲で、全体に成り立つものだと、勝手に誤解をしてしまうわけだ。
これは、言霊に限られた話ではなくて、「親切にするとしあわせになる(しあわせな生活をすることができる)(しあわせに暮らすことができる)」といった命題にも成り立つものなのである。
その場合、立場が弱い人が、標的になり、圧力をかけられることになる。わかるかな?
「すべては自己責任だ」とか「「親切にするとしあわせになる」とかと言っている人たちの頭のなかにあるのは、じつは、狭い範囲の限られた例だ。
ところが、普遍化して考えているのである。言葉は、言葉だから、抽象化して、考えるわけなんだけど、抽象化して、抽象度が高い全体性について考えているという意識がないのである。
ようするに、例と全体例(全体性)は、直結しているものなのである。この人たちの頭のなかで、直結している。
しかし、ほんとうは、直結していない。例と全体例(全体性)は、直結していない。
相手の立場について考える力が弱いと、あるいは、普通のレベルだと、相手の個別具体性を無視してしまうのである。
頭のなかに「抽象度が高い全体」が成り立っているので、目の前の他人の、現実を無視してしまう。その場合、立場が弱い(他人)が傷つくことになる。
しかし、頭のなかに「全体性」が成り立っているので、「全体性」のほうが正しいと思ってしまうのである。ようするに、各命題は「どんなときでも正しい」と思っているのである。
しかし、これも、「どんなときでも正しい」と言っていないというような、言い訳が成り立つ余地があるのである。
この余地は、誤謬だ。全体性について語っているのだから、どんなときでも正しいということを語っているということになる。
「どんな場合でも、正しい」という前提で話しているのだけど、「どんな場合でも正しいと言っているわけではない」という言い訳が成り立つ状態なのだ。
これも、思考の矛盾なのである。ただ、矛盾に気がつかない。全体性について語っている人が、自分の思考に矛盾があるということに気がついていないのだ。