もう、何回か書いているけど、自分を対象としたスピリチュアリズムは、どんどんやってもらって、かまわない。あくまでも、自分を対象とした場合の話だ。
自己責任論とおなじなのだけど、自己責任論には、自分を対象とした自己責任論と他人を対象とした自己責任論がある。他人を対象とした自己責任論にかたよると、他人の条件を無視して、(他人に)無理なことを言うようになる。
もう、決まっているんだよ。
努力論もおなじだ。
自分を対象とした努力論なら、場合によっては、プラスに働くこともある。けど、これは、悪魔側が提示した考え方なので、じつは、しっぺ返し?をくらうことになる。
努力すれば成功すると、会社のなかで、頑張って働いてきたのに、定年退職したら、自分のうちなのに、自分の居場所がなくなっているというようなことが発生する。
じつは、今まで言っていたことを、ひっくり返すようだけど、自分を対象にした自己責任論の場合も、しっぺ返しを食らうことになる。自分を対象としたスピリチュアリズムでも、なぜか、しっぺ返しを食らうことになるのだ。
けど、しっぺ返しをくらうことになるとしても、他人を対象としたスピリチュアリズムよりも、よいものなのだ。
他人を対象としたスピリチュアリズムというのは、本人はいい気分になるかもしれないけど、他人を、こまらせることになる。他人に不愉快な感覚を与えるものなのである。
スピリチュアリズムというのは、悪魔側が提示した考え方なので、そうなってしまうのである。
だいたい、自分を対象としたスピリチュアリズムと、他人を対象としたスピリチュアリズムを区別しているスピリチュアリストなんて、めったにいない。
どうしてかというと、「真実」として語られるからだ。「宇宙をつらぬく法則」として語られるからだ。
神がもたらしたものとして語られるからだ。
ところが、じつは、悪魔がもたらしたものなのだ。なので、じつは、ひっくりかえってしまうのである。
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たとえば、みんなことを(他人のこと)愛するということを考えてみよう。みんなというのは、具体的な他者ではなくて、みんなという集合体なのだ。ひとかたまりで、みんなということになっている。その場合は、観念によるものになるのである。
しかし、具体的な個人というのは、具体的な個人として……たとえば、そのひとのまわりに現在しているのである。
たとえば、言霊的なことを考えているとき、しあわせになるとしよう。気分的にしあわせを感じるということだ。 前向きなことを言うと、前向きな気持ちになるとする。
本人は、それでいい。
しかし、他人に対して、言霊的な助言?をする場合は、かならず、他人の条件を無視して、言霊的な助言をすることになるのである。これは、相手をくるしめることであって、相手をしあわせにすることではない。
ここで、逆転が起きてしまう。ひっくりかえってしまう。
しかし、言霊主義者が、それに気がつくことは、めったにないのである。どうしてかというと、言霊主義者のなかでは、言霊原理は正しいということになっているからだ。その言霊主義者のなかで、言霊原理が正しいということになっているので、当然、自分が相手に言った内容も正しいということになるし、自分の行いも正しいということになってしまう。
たとえば、相手に言霊的な助言をすることも、愛の実践だと思ってしまうのである。他人のことを愛しているからこそ、他人のために、言霊主義的な考え方をおしえてあげるということになるのである。
これが、言霊主義者にとって、愛の実践でなくて、なんだ。
ところが、対象になった人は、不愉快な思いを経験することがある。
どうしてかというと、相手には、現実的な条件があるからだ。相手の条件が悪い場合は、不可避的に、不愉快な思いをすることになるのである。
言霊的な助言をされて、明るい気持ちになる場合は、だまされている場合だけなのだ。
そして、その人(助言された人)も、言霊主義者とおなじように、誤認して、言霊理論が正しいと思った場合だけなのだ。
こういう場合だってあるけど、それは、さらなる、誤解をうみだすのである。そして、この人……言霊理論を信じるようになった人も、他人に対して、言霊的な助言をするようになる。
言霊理論が正しいと感じる場合は、「言ったあと」と「言ったから」の区別がついていない場合が多い。区別がついていないから、「言ったあと」「言ったことが起こる(現実化する)」と、言霊理論が正しいと誤解するようになる。
けど、誤解だ。誤解なんだよ。
神様の力のような「なにかそれ」を想定して考えると、言霊の力によってそうなったと考えてしまうのだけど、ちがうのだ。言霊的な考え方というのは、幼児的な考え方で、だれにも、なじみがある考え方なのだ。
だから、それを、悪魔に利用されているにすぎない。
悪魔側の主な目的は、人(普通の人)に、条件が悪い人を攻撃させることだ。そうすると、トラブルが生じて、憎悪がしょうじるのである。言った側には慢心が生じて、言われた側には、憎悪がしょうじることになるのである。おわかりか?
普通の人は、言霊原理が正しいと思うと、ごくごく普通に、他人に言霊的な助言をするようになる。そういう「ひとのせいしつ」を、悪魔が利用しただけなのだ。
悪魔は、人がそういう存在であるということを理解している。悪魔がゲットするのは、トラブルと、憎悪と、慢心だ。
悪魔は、人間観のトラブルが大好きなのだ。悪魔は、人間のトラブルを見るとわくわくしてしまうのだ。言霊主義者が幼児的万能感に支えられた幼稚な理論に振り回されて、『悪事』を働いてしまうのである。
「言った通りになればいい」というのは、人間の存在に必要な気持ちだ。だから、別に、自分のなかで、そう思うことは、とめられない。しかし、原理として「言ったことが弦自活する」ということを、他人に言うのはよくないことだ。