ほんとうは、掃除をすることと、運があがることなんて、関係がないのである。一切合切、関係がない。
実際には、関係がない。
しかし、「関係がある」と思っている人は、掃除という儀式的な行為をしたから、「運があがる」と信じることができる。とりあえず、信念プラシーボ効果だとする。
その場合、「掃除をすれば、運があがる」と信じることができる人には、信念プラシーボ効果かもしれない。
しかし、「掃除をすれば、運があがる」と信じることができない人には、信念プラシーボ効果はない。ようするに、人によってちがう。
人によってちがうことを、一〇〇%構文の文で言うことは、悪いことだ。
これ、いいことじゃないのである。
ところが、『いいことだ』ということになっているのである。
まあ、社会通念として、それほど悪いことではないということになっていると思う。
しかし、助言というかたちになってあらわれると、それは、悪いことになる場合があるのである。助言と言えば聞こえがいいけど、「確かではないこと」を押し付けているだけだ。
しかも、一〇〇%構文の文で言っている以上、「確かではないこと」を「確かなことだ」と嘘をついて、言っているということになる。
本人が……言っている本人が、一〇〇%構文の意味をとりちがえていて、「確かなことだ」と思っているだけなのである。
ほんとうは、助言をする側に、根本的な間違いがある。
ところが、これまた、これが、社会通念として、成り立っていないのである。助言をするほうは、善意で、間違ったことを言うのである。
これは、理論的に完全に、間違ったことなのである。
ところが、言っている本人には、間違ったことだという認識がないのである。言っている本人は、「正しいこと」を言っているつもりなのである。だから、問題がしょうじる。
それから、「掃除をすれば、運があがる」と信じることができた人だって、何回も何回も何回も何回も何回も何回もやってみたけど、運があがった実感がないという場合がある。
その場合は、「掃除をすれば、運があがる」と信じることをやめてしまうのである。「掃除をすれば運があがる」と一〇〇%構文の文で言っている人は、「掃除をすること」で、問題がしょうじる場合があることを、完全に無視している。
掃除をしていて、手を怪我する場合だってあるし、掃除をしていて、むせる場合だってある。家にある(家族のもの)を捨てたという理由で、争いが発生する場合だってある。かならず、一〇〇%の確率で、運がよくなるようなことが起こるわけではないのである。
そして、「掃除をすれば運があがる」と言っている人たちは、じつは、条件が悪い人の、条件を無視している。条件が悪い人のなかには、体力と時間に余裕がない人もいる。
掃除をするということは、じつは、時間がかかることであり、体力を消費することなのである。
だから、時間消費と体力消費という点では、むしろマイナスになる行為なのである。条件が悪い人ではない場合、掃除程度の時間消費と体力消費は問題にならないので、この点を完全に無視している。
ようするに、条件が悪くない人は、最初から、時間消費と体力消費を無視してしまうのである。
そして、一〇〇%構文の文で「掃除をすれば、運があがる」と言ってしまう。相手の条件を無視するのは、よくないことなのである。条件を無視され人のうち、かなりの人は、自分の条件を無視されて、不愉快な思いをするのである。これは、自己責任論のときもおなじなのだけど、たいていの場合、条件が悪い人が、条件を無視されると、腹が立つのである。
しかも、相手は、自分が言っていることが絶対に正しいと思っているわけだから、条件を無視したということについて、とくに気にしないのである。
むしろ、自分が絶対に正しいと思っていることに関して、ケチをつけられたと感じるだろう。助言をされたほうが、なにかを言えば、助言をしたほうは、自分が絶対に正しいと思っていることに関して、ケチをつけられたと感じる確率が非常に高い。
だから、もともと、一〇〇%構文の文で言うことには、問題がある。特に、本人が、一〇〇%構文の文で言うということに、ついて、よく考えない場合は、問題が発生する。
本人の信仰は自由だけど、本人が理論的間違ったことを、正しいことだと思って言っている場合には、トラブルが生じやすい状態になるのである。
しかし、現実社会というのは、過酷だ。助言をするほうが、比較優位(相対的に優位な立場)である場合は、比較優位であるので、自分の間違いを認めないということが、発生しがちになるのである。
助言されてしまったほうは、たとえ、相手の言っていることが間違いであるということに気がついても、それを指摘することが、事実上できない場合もある。
どうしてかというと、比較劣位(相対的に劣位な立場)だからだ。
そして、条件が悪くて、不幸な暮らしをしているということは、絶対的な劣位なのである。だから、どうしても、助言をするほうの助言内容が正しいという、認識がうまれがちだ。
だから、条件が悪くて、絶対的に劣位である人は、間違ったことを助言されるというマイナスの出来事を経験しやすいのである。
マイナスと書いたけど、ネガティブでもいい。
理論的に間違った言い方で、確かではないことを、助言されてしまうということ自体が、ネガティブな出来事なのである。