現実はともかくとして、そう思い込みたい気持ちが、ものすごく強いのである。だから、理論なんて関係なく、そう思い込む。
ところが、言霊理論も理論なのである。
たとえば、『言えば言ったことが(言霊の力によって)現実化する」というのは、理論なんだよ。だから、理論をふりまわしている。理屈をふりまわしている。妄想的な理屈なのだけど、「絶対に正しい」と言ってゆずらない。
じゃあ、「正しい」と思えないことにぶつかった場合、どう思うのかというと、「またまた調子が悪かった」というようなことを思うのである。そして、すぐ忘れる。
最初から、「正しいことではなかった」ということが、まったく意識にのぼらない場合もある。ぼくの観察した範囲だと、「正しいことではなかった」ということが、まったく意識にのぼらない場合が、圧倒的に多い。
ぼくは、ここで「ぬけぬけだ」と表現きたけど、ほんとうに、意識にのぼらないのである。ようするに、「そうじゃなかった」ということに気がつかないのである。
これは、たぶんだけど、「そう思い込みたい気持ちが、ものすごく強い」からだ。基本、この、『妄想ぬけぬけスタイル』が、人類にとってスタンダードなスタイルなのである。
これが、人類のデフォルト。
人類のデフォルトだから、どれだけ妄想的なことを言っても、間違っているとは思わないのである。そして、みんな……ぼくも含めて……みんな、「そう思いたい」気持ちが深いところにあるので、妄想的なことではなくて、事実だと感じてしまうのである。
たとえば、食べ物と食中毒の関係について考えてみよう。これは、人間が生きていくうえで、たいせつな能力なのだ。「これ」を食べたとき(食べあと)すぐに具合が悪くなったとする。そうすると、その食べ物と、体調不良(具合が悪くなったこと)のあいだに、関係性ができるのである。
これは、あたっている場合と、あたっていない場合がある。その食べ物が原因である場合と、その食べ物が原因ではない場合がある。
だから、あたっているときは、「真実の関係」だ。けど、その食べ物というのは、全部同じではないのである。たまたま、くさったものを食べただけかもしれないのである。
特定のリンゴを食べたあと、具合が悪くなったという経験があり、なおかつ、そのリンゴが、具合が悪くなったことの原因ではなくても、その人が、そのリンゴが、具合が悪くなったことの原因だと考えている場合は、リンゴ一般に対して、警戒心がわくのである。
けど、その特定のリンゴがだめだっただけかもしれないのである。これは、その特定のリンゴが、たしかにその後の体調不良の原因であるばあいも含めてそうなる。
ある程度、関係性が『般化』するんだよな。
ともかく、ある種の、生物的なしくみとして、「ある出来事」と「ある出来事」のあいだに、一度関係性ができると、その関係性が『般化』するということが発生するのだと思う。
でっ、それが、究極的に自分にとって都合がいいものだと、関係性が、信仰されるようになる。これは、信仰だ。まあ、その関係性が信念になると言ってもいい。
そして、ともかく、ここで言いたかったことは、人間という種にとって、この「誤解をする力」というのが、けっこう重要なのではないかということだ。
いや、言いたかったことは、「そう思い込みたい気持ち」が強烈だからこそ、「言えば、言ったことが現実化する」という考え方に、多くの人が、あんまり疑問を持たないということに関係しているのではないかということだ。
この、『誤解力』は、種の保存に、かなり影響をあたえていると思う。
ようするに、種の保存に必要だから、誤解をする個体が、たくさんあらわれるということなのではないかと思う。