「やり方が悪いから、うまくいかなかった(だけだ)」という言い方がある。
一度、「Xをすれば、運があがって、幸福になる」という型の文がつくられると、あたかも、それが、この世の法則であるかのような、意味合いを持ってしまう。
これは、まえにも言ったけど、時間的に接近しているだけだ。
ようするに、「その気になっている」だけだ。
ふたつの出来事が、時間的に接近しているので、『自分がXをしたから、運があがって、いいことが起こったんだ』と思うわけだ。
『自分がXをしたから、天が、その見返りをあたえてくれた』というような考え方が、この世には、ある。
『自分が、あるとき、人を助けてあげたから、自分がこまっているときに人が助けてくれたのだ』と思う人が、世の中には、いる。
たとえば、自分が助けた人がAさんだとする。別に、自分がこまっているときに助けてくれるのは、Aさんではなくてもいいのだ。しかし、Aさんであってもよいのだ。
実際にある互酬性や、実際にある仕返しが、「自分がしたことが、かえってくる」と思いやすい状態をつくりやすい。
けど、世の中のしくみというのは、じつは、残酷なのだ。
『しくみ』というのがある。
『しくみ』がある。
たしかに、「自分がしたことが、かえってくる」と思えることがある。
それは、まず、人に恨みを買うことをすれば、相手が、うらんで、自分に仕返しをしてくるというのがある。そして、親切にしてくれた相手には(対等な関係なら)親切にしやすいという点がある。
こういうことは、たしかに、ある。
実際の精神活動がある。そして、その精神活動は、「提示された理論」を肯定しているのである。
ところが、「しくみ」があるのだ。この世には、「しくみ」がある。
だから、実際には、不均衡な状態がしょうじる。しょうじるだけではなくて、不均衡な状態が常態化する。これは、「親切なことをされたときに、親切なことをされた」と認識するかどうかということとも、関係がある。
親切云々に関しては、じつは、その人間関係が一時の関係なのか、それとも、システムに組み込まれた中で、常態化した関係なのかということが、関係している。
推奨される「小さな親切」の場合は、一時的な関係なのである。仕事の関係が成り立っている場合、下の人間がした「親切行為」について、上の人間は「親切行為だ」と認識しない場合のほうが多い。
そりゃ、そうだろう。
仕事なんだから。
けど、ほんとうは、範囲を超えた雑用をしてあげただけでも、「親切行為」になる。「小さな親切」として語られることと、おなじ意味をもつ「親切行為」なのだ。
ところが、「仕事なので当然だ」と思われる場合がある。そういう場合が多い。
じつは、相手との関係ということを考えて、「親切行為」について考え直さなければならないのだ。社会の中に埋め込まれた関係における「親切行為」なのか、それとも、一時的な関係における「親切行為」なのかということは、じつは、重要なことなのだ。
これ、無視されることが多いことなのだけど、ほんとうは、重要なことだ。
まあ、話がずれたけど、『自分がXをしたから、運があがって、いいことが起こったんだ』と考え方は、考え方としては、いいけど……多くの場合、あるいはすべての場合において、単なる勘違いだ。
だから、 「やり方が悪いから、うまくいかなかった(だけだ)」と他人に言うのは、よくないことなのだ。
* * *
わかりにくいと思うので、言霊理論で説明しておこう。たとえば、Cさんが、「明日は、雨がふる」と言ったとしよう。
そして、Cさんのいる地域に実際に雨がふったとする。この場合、Cさんが「明日は、雨がふる」と言ったいう出来事と、Cさんの地域に雨がふったという出来事のあいだには、なんの関係もない。なんの関係もないのだけど、Cさんのなかでは、「自分が、雨がふると言ったから、雨がふったのだ」ということになる。
そして、Cさんのなかでは、「言霊は絶対だ」ということになる。だから、Cさんは「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化する」という言霊理論を信じたとする。
CさんがDさんに「言えば言ったことが、言霊の力によって現実化する」と説明したとする。Dさんが「明日は、雨がふる」と言ったのだけど、Dさんがいる地域では、雨がふらなかったとする。
「Dさんの言い方が悪いから、雨がふらなかったのだ」とCさんは判断することになるのだけど、最初から、「だれかが雨がふる」と言ったということと、「実際に雨がふる」ということのあいだには、なんの関連性もないのだ。
最初から、Cさんが勘違いをしているだけだ。ほんとうは、法則性なんて成り立っていないのである。Cさんの頭のなかには、法則性が成り立っているのだけど、ほんとうは、ふたつの出来事のあいだには、なんの関係もない。
だれかが「雨がふる」と言ったという出来事と、「雨がふった」という出来事のあいだには、なんの関連性もない。
しかし、自分が言ったから、雨がふったのだと確信して、言霊があると確信した人は、自分が言ったから、言霊の力によって、雨がふったのだと確信してしまう。これは、じつは、間違った確信なのである。
ほんとうは、ふたつの出来事のあいだには、関係性はないのである。単なる、勘違いなのだ。
しかし、一度、その人の頭に、「関連性が成り立つ」と、「うまくいかなかった」という相手に対して「相手のやり方が悪かったから、そうならなかったのだ」と言い切るメンタルができあがる。これが、曲者なのである。
* * *
考えづらいことかもしれないけど、互酬性の部分と「運があがる」という部分は、じつは、関係がないのだ。たとえば、CさんがDさんに、ある本を貸してあげたとする。そのあと、Dさんが、今度は、Cさんに、別の本を貸してあげたとする。親切にしたので、親切が返ってきたと考えることもできる。しかし、これは、別に「運があがる」ということを、ほんとうは、意味していない。「いいことが返ってきたのだから、運があがったんだ」と思うかもしれないけど、個別の力としての「運」があがったわけではないのだ。
Cさんが、Dさんに、お歳暮を、あげたとする。そのあと、DさんがCさんに、お歳暮をあげたとする。互酬性が成り立っている。しかし、個別の力としての「運」があがったわけではない。いちおう、ここでは、お歳暮というのは、お歳暮のときにあげる、なんらかのもののことだとする。
「運」というのは、現実の写し絵だということを書いた。最初に、Cさんが、Dさんに、お歳暮をあげたということを無視すれば、たしかに、Cさんは、Dさんからお歳暮(の品)を受け取っているので、お歳暮(の品)がいいものなのであれば、いいことが起こったということになる。いいことが起こったということは、運があがったということだということになる。しかし、運があがったかどうかは、わからない。
社会のしくみのなかで、お歳暮のやり取りをしたということだけなのだ。もし、Cさんが、Dさんにお歳暮をあげたのに、DさんがCさんにお歳暮をあげなかったら、Cさんは、Dさんに対して、なにを思うだろうか。次の年も、Cさんは、Dさんにお歳暮をあげるだろうか。お歳暮をあげるということが、ほんとうに、親切行為なら、Cさんは、Dさんからの見返りを期待するべきではない。
しかし、いちおう、しくみに従って、CさんはDさんにお歳暮を贈ったので、Cさんは、この時点で、Dさんも自分にお歳暮を贈ってくるはずだと思っている場合が多い。あるいは、事前に、Cさんにとって、Dさんが、恩人である場合は、別に、Dさんが、Cさんにお歳暮をかえさなかったとしても、不満には思わないだろう。
これには、上下関係がある。そして、両者の間に、上下関係が当たり前のものとしてあるということが、認識されているから、Dさんが、Cさんにお歳暮をかえさなかったとしても、Cさんが、不満に思わないだけだ。
なにを言いたいかわからないかもしれないけど、実際に発生している出来事を、そのまま「運」という架空のものに、スライドさせることはできないということを言いたい。
「運」があがることを意味しているように思えるかもしれないけど、運があがったと考えられることは、実際の行為をちがった角度から考えているだけだ。
ようするに、言い換えにすぎないのである。
ようするに、「運」うんぬんのまえに、しくみが成り立っている。しくみが成り立っている世界で、人から物をもらったということを、「運があがった」と言い換えているだけだ。
わからないかもしれないけど、別のことなのだ。個別の力としての「運」は最初から、存在していない。現実の一部分を切りだして、個別の力としての「運」があがったと思い込んでいるだけ。
しかし、個別の力としての「運」というのは、最初からない。言霊理論における言霊の力のように、妄想的な思考によって、そういう力があると設定されているだけだ。
都合よく、「個別の力がある」ということになっていて、都合よく、現実を切りだして「運があがった」ということになっているのだけど、現実の行為を成り立たせている「しくみ」がある。
しくみのほうが、重要。
どうしてかというと、しくみに関する認知と、行為の結果に関する認知が深く結びついているからだ。
しくみに関する認知と、行為の結果に関する認知によって、じつは、「親切にした」とか「親切にされた」とかとい認知も成り立っているので、しくみから切り離された「運があがる行為」が成立しているわけではないということが、重要なのだ。
社会において、仕事をするという設定が成り立っている場合、親切行為が、親切行為とはみなされない場合があり、親切行為とみなされない見方が、常に成り立っているのであれば、どれだけ「親切行為」をしても、「親切行為をした」とは見なされない。「しくみ」が成り立っている。
ともかく、ほんとうは、運というのは、個別の力ではない。
しかし、現実から、個別の力があるように、誤解されている。これは、誤解にすぎない。妄想的な思考をしているだけだ。都合よく、そのときだけ「運があがった」という解釈が成り立っているだけだ。
手短に言うと、社会のしくみのなかで、親切心が「搾取」されてしまう場合がある。親切心を搾取する仕組みが成り立っていれば、親切にされたほうは、親切にされたと認識しない。
そして、あたりまえのように搾取する。
じつは、その社会化された「親切心の搾取」に寄与している言葉が、「運」というような言葉だ。
総合的なことを言ってしまえば、「運があがる」ということをはやらせることによって、人から親切心を搾取する層がある。そういう側に立つ人たちがいる。これは、じつは、見えないやり方で、親切心を搾取している。
手短に言うと、「人に親切にすると運があがる」というような言葉を発する人たちが、しくみのなかで、人の親切心を搾取している。搾取している側に立ったり、搾取している側の味方になる。じつは、逆なんだよね。
社会のしくみを通すと、そうなる。不思議だけど、そうなる。巧妙な言いかえがある。