『自分にとって不都合な結果』に書いたことも、『ぬけぬけ感覚』のひとつだ。
本人が、気がつかないのだから、ぬけている感じはしないだろう。
だから、「ぬけぬけだ」と言われると、おこる確率が非常に高い。
「ぬけぬけだ」と言ってきた相手に対する嫌悪感もしょうじるだろう。人間として、当然の感覚だ。
その場合、言霊でどうにかしようとしないのだ。
「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と普段、豪語していても、「楽しい楽しい」と言ったりしない。まあ、言っても、ものすごく高い確率で楽しくならないだろう。推測でしかないけどね。
「言霊理論」に従えば、「ぬけぬけだと言われて、うれしい」と言えば、うれしくなるのだ。はたして、うれしくなるのかどうか、わからない。
自分がぬけぬけだと言われて腹が立った場合は、「うれしい」と言って、うれしくなるようなことをしない確率が高い。
たいていの場合、言霊主義者を含めて、普通の人は、腹が立つことを言われたあと「うれしい」と言って、うれしくなるようなことをしない。
そういう行為だと想定されている行為をしても、たいていの場合、うれしくならない。
そして、たとえば、人には「すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と言っている人も、「受け止め方をかえればいいのだ」と思わない。
「ぬけぬけだと言われて腹が立ったというのは、受け止め方の問題だから、ぬけぬけだと言われて、うれしいと思えばいい」とは思わない……確率が非常に高い。
そして、「ぬけぬけだと言われて、うれしいと思えばいい」と思ったあと、ほんとうに、うれしいと思えるかどうかだ。「受け止め方をかえればいい」と人にはい言うけど、自分の受け止め方は、なかなか、かえられない確率が高い。
うれしいと受け止め方をかえられる人は、めったにいないと思う。
あるいは、「ぬけぬけだと言われて、うれしい」と受け止め方をかえようとしない。そういう感情がわくのがあたりまえだと思うことに関しては、「受け止め方を」かえようとはしないのである。
たとえ、相手のことを憎く思っても、受け止め方をかえようとしないのである。
そして、たとえば、自分に対して「ぬけぬけだぞ」と言ってきた相手に対する嫌悪感がしょうじたとする。
その場合……『自分のなかに、人に対する嫌悪感がしょうじることは、よくないことだ』と考えて、人に対する嫌悪感を、受け止め方をかえることによって、消滅させようともしないのである。
しかし、「すべては受け止め方の問題だ」「これは、正しい」と思ったままなのである。
「人はかわらないから、自分をかえればいい」と思ったままなのである。
『タンスのカドに足をぶつけたとき、頭をぶつけずによかったと思って、出来事の解釈を書き換えるように、悪口を言われたと思わないで、いいことを教わったと書き換えればいいのだ』とは思わないのだ。
「ぬけぬけだ」と言われて、嫌悪感がしょうじたら、嫌悪感に従った行動をするのである。「ぬけぬけだ」と言われて、嫌悪感がしょうじたら、嫌悪感に従った反応をかえすのである。
『ああっ。自分が気がつかないことを教えてくれたのでありがたい』とは思わない確率が非常に高い。
『言葉で、正しいと思っていること』と、『実際の自分の反応』がちがうのである。
しかも、『言葉で正しいと思っていること』は、いつまでも自分のなかでは、正しいことなのである。現実の場面で、その言葉通りではない反応を自分がしているのに、それに気がつかない。