間違った学習なのだけど、学習が発生してしまう。
たとえば、「明日は雨が降る」と言ったあと、実際に、次の日になったら雨だった場合、もちろん、「明日は雨が降る」と言ったことと、実際に、雨が降ったことには、なんの関係もないのだけど、「自分が明日は雨が降ると言ったから、雨が降ったんだ」と本人が確信すると、関係を学習したということになる。
間違いの学習なのだけど、学習した効果は残る。
たとえば、おっぺけぺと言うと願いがかなうと思っている人がいたとする。その人が実際に「おっぺけぺ」と言ったら、行政から給付金が振り込まれたとする。
「おっぺけぺ」と言ったから、おカネが振り込まれたのだと思った場合、「おっぺけぺ」ということと「おカネが振り込まれた」ということのあいだに関連があるように思うのである。
これも、間違いなのだけど、本人がそう思った場合、本人のなかでは、「たしかに関係があるものだ」と認識されることになる。
この場合も、学習が発生したということになる。
とりあえず、「おっぺけぺ」と言うと、願いがかなうと思っている人は、Aさんだとする。
「おっぺけぺ」と言うと、いいことが起こると確信したAさんが、就職活動をするかどうか迷っていたのだけど、「おっぺけぺ」と言えば、就職できると思って、就職活動をしたとする。
その場合、Aさんのなかでは……「おっぺけぺ」と言うことと、就職活動をするということには、関係があることになる。
「おっぺけぺ」と言うと、就職活動でも成功すると思ったAさんが、実際に就職活動をした。その結果、就職できたとする。
その場合、「おっぺけぺと言うことがプラスの影響を与えた」と言うことができるかというと、言えると思う。
しかし、就職した先が超・ブラック企業だった場合、いろいろといやなことが発生するので、就職自体がよかったことなのかどうかは、わからないということになる。
時間的な接近というのが、けっこう問題なのだ。
Xをしたときと、いいことが起こった(と認識したとき)の時間の近さが、けっこう問題なのだ。時間的に近いと、Xをしたから、いいことが起こったと思う確率が高くて、時間的に遠いとXをしたから、いいことが起こったと思う確率が低くなる。
マウスの話になってしまうのだけど、マウスが、レバーを引くと、エサが出てくるようにしておく。その場合、レバーを引いたあと、一秒で、エサが出てくる場合は、レバーを引くとエサが出てくるということを(魔数が)学習しやすくなる。
しかし、たとえば、レバーを引いたあと、二三時間たつとエサが出てくる場合は、レバーを引くということと、エサが出てくるということの関係性にマウスが気がつかない場合が出てくるはずだ。
人間の場合は、夢や願望を、時間をかけてかなえるということができるので、相当に長い時間がかかって「現実化した」ことでも、「言ったこと」と「現実化したということ」のあいだに関係性を認める場合がある。
しかし、内容がはっきりしている夢や内容がはっきりしている願望ではなくて、「なにかいいことが起こる」という場合は、「なにかいいことが起こる」ということに、意識が集中するので、もし、意識が集中していなければ、「なにかいいこと」として認識されなかったことも、「なにかいいこと」として、認識される場合がある。
ある儀式的な行為とある出来事のあいだに、比較的短い時間の流れしかないと、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」と思ってしまう確率が高くなる。
これは、「儀式的な行為をしたからある出来事が起こった」ではなくて、「儀式的な行為をしたあとある出来事が起こった」ということなのだけど、誤解をしてしまう。
ぼくから見れば、誤解だけど、その人から見れば、「真実」なので、その人にとってみれば「効果があった」ということになる。ある出来事が起こったというのは、たいていの場合、客観的な事実だけど、意味合いは、主観的に与えられるものなのである。
ようするに、その出来事が「いい出来事である」ということは、主観的に決まることでしかない。主観と客観がだいたい、一致する場合もあるけど、主観のほうが優先される。その人にとって「いいこと」なのか、「悪いこと(いやなことを含む)」なのかは、ほかの人にはわからないことだ。
本人が「いいことが起こった」と思っている以上、「いいことが起こった」ということになる。「いいことが起こった」という言い方をしたけど「いいことがある」という場合もおなじだ。何度も言うけど、ある出来事が、「いいこと」なのか「悪いこと」なのかは、その人が主観的に決めることだ。
けど、それなりに、「いいことである」と感じる根拠があるのだ。その人のなかに根拠がある。
それは、情報のつみかさねによってしょうじた価値観の総体だ。
無意識的なレベルまで含んで、価値観の総体があるから「その時点」で、「いいことが起こった」「いいことがあった」と自然に思えるのだ。
これを、たとえば、その時点で「悪いことが起こった」と感じたのに、意識的な意思で、むりやり「いいことが起こったのだ」と書き換えることは、じつは容易ではない。
そして、その試みは、失敗する確率が非常に高い。総体のほうが、そのときの意識的な意思よりも、出来事の価値を決めてしまう力が強い。
だから、そのときの意志に合わせて、出来事を自由に書き換えるということはできない。
ほんとうは、できないのだけど、これまた、できるようなことが、言われるのだ。
その場合、そこにしめされる例は、例外的であり、普段は、相対的な感覚で感じたことを、意識的に書き換えることは、むずかしいことなのだ。あんまり、成功しない。
たとえば、「タンスの角に足をぶつけて、痛いと思った」とする。そのとき「頭をぶつけなくてよかったと思えばいい」というような例があげられる。
これらの例は「悪いことが起きても、いいことだと思いなおすことができる」という例として語られる。じつは、これらの例は、案外レパートリーが少ない。
自分がミスをしたということが、前提になっている場合が多い。
「思いようだ」というようなことが、言われるけど、これらの例に関しては、『自分が思いなおすことが容易』な例なのだ。こういうことを言う人たちだって、普段、自分が、ほんとうに腹を立てることには、普通に腹を立てている。ヌケヌケだからわかっていないだけなのだ。
自分が正しいと思ったことを否定されたとする。そのときは、普通に腹を立てるのだ。『自分が正しいと思ったことを否定されただけで、なぐられたわけではないので、よかった』とは、なかなか思わない。顔を殴られたら、『顔を殴られたけど、歯が折れなくてよかった』とは、なかなか思わない。
「Aということが起こったけど、Bということが起こるのよりも、ましだから、よかった」と言い換えて、安心できる範囲というのは、案外限られている。
この人たちは、例をあげられると、「その通りだ」と思って、自分もその通りに行動しているように思っているのだけど、実際には、その通りには行動していないことが多い。
「相手の行為が原因だ」と思っている場合は、「なになによりもましたがら、よかった」とは考えないで、相手に対して、おこる確率が非常に高い。自分が損をしたときも、「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通にくやしがる確率が非常に高い。
相手が無礼な態度で、無礼なことをしてきたら、 「なになによりもましたがら、よかった」とは思わずに、普通におこる確率が非常に高い。
「例」をあげるメンター・教祖が、普段どういう生活をしているのかということを、ちょっとは、気にしたほうがいい。