毎日、ズルいことをやる他人といっしょに住んでいるということが、どういうことなのか、毎日、ズルいことをやる他人といっしょに住んだことがない人はわからない。しかも、ズルいことをやっている本人が、ズルいことをしているというつもりがないのだ。ズレと言ったけど、ズレが、ズルをうみだしているのだ。指導的にそうするのだ。そして、自動的に「そうしてない」ということになる。きちがいの頭のなかだとそうなる。思いっきり鳴らしたいということを固定すると、思いっきり鳴らしたいということに「はむかうこと」は、たとえ事実であったとしても、絶対に認めたくないことだから、認めないということになる。認めないのだけど、認めなかったという認知もないのだ。認めなかったというつもりがない。一切合切ない。だから、本人の主観としては、「やってないこと」になっているのである。
きちがい的にでかい音で鳴らしている……思いっきり鳴らしているということも、やってないことだし、「しずかにしてくれ」と言われたあと、しずかにせずにずっと思いっきり鳴らしたということも、やってないことになっているのである。「しずかにしてくれと言われたあと」というのは、「兄貴が、俺から、しずかにしてくれと言われたあと」ということだ。もうひとつ、無視していることがあって、それは、相手が言ってきた内容だ。相手になにか都合が悪いことを言われら、瞬間的に頭にきて、瞬間的に認めない状態になるので、相手が言ってきた内容というのは、頭にはいってない。何万回言われても、相手が言ってきた内容というのは、頭に入っていない状態なのだ。だから、「相手がしずかにしてくれと言ってきたけど、無視して鳴らした」ということが、頭のなかにまったくない状態で、鳴らし続けることができるのだ。これを、毎日、五千日繰り返しても、「相手がしずかにしてくれと言ってきたけど、無視して鳴らしてやった」ということになってないのである。頭に、そんな内容が、まったくない状態で生きている。頭に、そんな内容が、まったくない状態で、思いっきり鳴らし続ける。けっきょく、どれだけ鳴らしても、相手がこまったということを認めないのだから、自分(兄貴)は、お党の勉強の邪魔をしてないということになってしまうのである。きちがい的な意地で、七時間鳴らせるなら、七時間、一分間もゆずらずに、思いっきりでかい音で鳴らしても、じゃまをしたとは思えないのである。きちがい的な意地で、十三時間鳴らせるなら、十三時間、一分間もゆずらずに、思いっきりでかい音で鳴らしても、じゃまをしたとは思えないのである。そんなつもりがまったくない状態で生きている。そういう認識が、ほんとうに、兄貴の頭のなかにはない。まったくない。たとえば、おとうとの入学試験の前日が日曜日だったとする。日曜日は、一日中鳴らせる日だ。一日に、十三時間鳴らせる日だ。十三時間鳴らせるから、自動的に十三時間鳴らす。どれだけ、鳴らしたって、入試のじゃまをしたと、まったく思わないのである。