「かゆいと言うからかゆくなる」ということについて考えてみよう。
かゆいと言うことによって、実際にかゆくなる場合と、かゆいと言うとによって、物理的なかゆくなる出来事が起こってかゆくなる場合がある。
もちろん、言霊主義者が考えていることを考えると、そういうことを考えているのではないかということだ。
実際には、自己暗示が猛烈に強い人でなければ「かゆい」と言ったって、かゆくならないのである。実際にはかゆくないのに、突然、「腕がかゆくなる」と言って、腕にかゆさを感じるというのは、日常的には少ない体験なのである。
言霊主義者だって、かゆくないときに、「腕がかゆくなる」と言ったって、なかなか、腕がかゆくならないのである。
言ってみれば、言霊主義者は、普段、「腕がかゆくなる」と言って、「腕がかゆくなること」に失敗している。本当は、かゆくならないのである。
しかし、人がこまっていれば「かゆいと言うからかゆくなる」と言ってしまう。幼児的な万能感が、その手発言に影響を与えているのである。
しかし、言霊主義者自身が、日常生活の中で、かゆくないときに「かゆい」と言っても、なかなか、かゆくならないのである。しかも、そのことに、気がつかないのである。
「元気だ」と言ったら、「元気になったような気がした」ということは、記憶に残るけど、「かゆくなる」と言っても、「かゆくならなかった」ということは、記憶に残りにくいのだ。
「雨が降る」と言ったら、「雨が降った」ということは、記憶に残りやすいけど、雨が降ると言っても、雨が降らなかったことは、記憶に残りにくいのだ。言霊主義者には、「言ったことが現実化する」という考えたが強く成り立っているので、その考え方に沿った記憶は、残りやすいのである。
ところで、今回言いたいことは、いったんは物理法則にしたがったことを経由して、言霊が働くと、言霊主義者が思っているケースについてなのである。
たとえば、「腕がかゆくなる」と言ったら、蚊がいない部屋に、急に、蚊が出現して、蚊が、腕を刺して、かゆくなったというケースだ。これも、実際には、蚊が入り込んでくる隙間がない部屋であって、なおかつ、ほんとうに蚊が存在しない場合は、「蚊がいない部屋に、急に、蚊が出現する」なんてことはない。
ないのだけど、言霊主義者は、自分の信じている妄想に沿って、そういうことだってあり得ると思ってしまうのだ。
一度、物理的なことを介在している場合というのは、言ったことにより、現象が、言ってみれば、引き寄せられてそうなるということだ。
言霊の力が、物理的な世界の物理的な力に影響を与えるか、あるいは、言霊の力が、物理的な世界の物理的な力を生み出すと信じているのである。
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「どんなにいやなことがあっても、楽しいと言えば楽しくなる」とか「どんなにつかれていても、元気だと言えば、元気になる」とかということは、自分の体感で完結する話だ。
そして、「自分の腕がかゆくなる」というのも、「体感」で済ませることができる話なのだ。だから、「腕かゆくなる」と言ったら、実際に「腕がかゆくなる」と言霊主義者は信じることができる。
もうひとつ、体感だけではなくて、実際に物理的な出来事が発生するという話がある。言霊の力が、物理的な力をかりて、あらわれるのである。
あるいは、言霊によって、物理的な出来事が発生するのである。
かゆくなる話の場合は、実際にかゆくなるようなことが発生して、かゆくなるということだ。「かゆい」と言うと、言霊の不思議な力によって、実際にかゆくなるような出来事が発生すると(言霊主義者は)考えているのである。
たとえば、蚊に刺されてかゆくなるということが、実際に発生する。けど、蚊に刺されてかゆくなるプロセスというのは、物理的なプロセスなのだ。
だから、言霊の力が、物理的な出来事を発生させていると(言霊主義者は)考えているのだ。この場合、言霊の力は、物理的なプロセスをおびきよせる(引き寄せる)力なのだ。言霊の力は、単なるトリガーであって、一度、引き寄せられると、物理的なプロセスに移行するのである。
体感だけで済む話と、実際に物理的な出来事が物理的な世界で発生する話は、それぞれ、ほんとうは、ちがう話なのである。
ところが、言霊主義者自身が、このふたつの話をごちゃまぜにして、区別なく信じているのである。このふたつは、ぜんぜん、ちがうことなんだよ。
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言霊の力というのは、言霊主義者が信じているように「超・物理的な力」なのだ。物理法則を無視して、働く力なのだ。だから、言っただけで、なんだって、可能になるのである。
言えば、物理法則を無視して、言霊の力が働くと(言霊主義者は)思っているのだ。自覚はないみたいなのだけど、そうなのだ。
言霊主義者自身が、じつは、言霊についてよく理解していないのである。その都度、妄想的な話をしているだけなのである。
言霊的な力と、物理的な力と、どっちが「上(うえ)」かという話だ。どっちがどっちを支配しているのかという話だ。
もちろん、第一義的には、言霊主義者の頭のなかでは、言霊の力が物理的な力を支配しているのである。超物理的な力も、言霊によってしょうじさせることができると思っているのだ。
言霊の力というのは、物理法則を無視して働く力なのだ。言霊の力のほうが、物理的な力よりも、上なのだ。言霊主義者は、第一義的には、そう思っている。
しかし、物理的な現象を引き寄せるだけの「言霊の力」は、トリガーの役目しかしていないのである。もちろん、トリガーの役目をしてしまうのだから、そこには、超・物理的な力が働いているということになる。
しかし、呼び出しただけで、あとは、物理世界の中で、物理的な力が働くのである。
つまり、物理的な力に頼っている。
言霊主義者も、物理的なプロセスを認め、物理的な力に頼っているのだ。
その場合は、物理的な力は、言霊の力によって簡単につくりかえることができるよう力ではなくて、言霊の力によっても、簡単にはつくりかえることができない力として(言霊主義者によって)イメージされているのだ。
もともと、言霊思考が妄想的な思考なので、言霊主義者自体は、そんなことは気にしない。気にしていない。
ともかく、物理的な出来事を「招来」するだけの「のろい」のような力として言霊の力を(言霊主義者が)イメージしている場合と、自己暗示のように、直接、自分の身体や精神に影響を与える力として言霊の力を(言霊主義者が)イメージしている場合がある。
「のろいのような力」としてイメージしている場合は、引き寄せやジンクスと関係がある。
そして、「直接自分の身体や精神に影響を与える力」としてイメージしている場合は、アファメーションと関係がある。これは、言葉による自己暗示であって、言霊の力ではないのだけど、言霊主義者は、言葉による自己暗示を、言霊の力だと勘違いしてしまっている。
自分の気分で言い切れるほうは、体感感覚に基づくものであり、本人が自己申告できるものなのである。「元気だ元気だ」と言ったあと、特に元気になったような感じがしないとしても、自分は言霊を信じているので「元気になった」と言ったほうがいいかと思って「元気だ元気だと言ったら、元気になった」という場合だってある。
「事実、 元気だ元気だと言ったら、元気になった」と言霊主義者が言う場合もあるけど、言霊主義者だって、身体的につかれる理由があって、ほんとうにつかれていたら、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない場合もある。ところが、それは、言霊理論とはちがう結果なので、「雨が降ると言ったのに雨が降らなかった」場合のように、無視されてしまうのである。
言霊主義者だって、「これは、眠らないとだめだ」と思うときがあるのである。「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないときがあるのである。何度も言うけど、そういうことは、言霊というものを信じている文脈では、語られることがないのである。
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言霊主義者は、人には「かゆいというからかゆくなる」「かゆくないと言えば、かゆくない」ということを言うけど、実際に、蚊に刺されて、かゆくなれば「蚊に刺されたからかゆくなった」と思うのである。蚊に刺されたあと、蚊に刺されたところがかゆくなるというのは、完全に物理的な現象なのである。
そして、それを知覚し認識する自我(脳みそ)がある。それは、身体に依存していることなのである。「言霊」なんてまったく関係がないことだ。「言霊」なんて出る幕がない。
言霊主義者だって、「蚊に刺されたから、蚊に刺されたところがかゆくなった」と思うのである。蚊に刺される前に、「かゆくなる」と、言ったから、言霊の力によって、かゆくなったわけではないのだ。
言霊主義者だって、普段は、かゆくないのに、突然「かゆくなる」と言いたくなったから、「かゆくなる」と言ったら、言霊の力によって、実際にかゆくなったとは、思っていないのだ。
しかし、「思っていない」ということが、意識にあがらないのである。
言霊主義者だって「蚊に刺されたら、かゆくなる」と思っていて、言霊的な思考をしていないのだ。「蚊に刺されたら、蚊に刺されたところがかゆくなってあたりまえだ」と(言霊主義者ですら)思っているのである。
何度も言うけど、言霊主義者本人が「あたりまえだ」と思っていることに関しては、言霊なんて関係なしに、思考をしているのである。