2026年1月7日水曜日

●自分が体験したことではないので、『実感がない』のである■言霊※2026/01/06 23:29

他人を対象にした自己責任論が世にはびこっていると、加害者まで、「そんなのは、被害者の自己責任だ」と考えるようになってしまうのである。

たとえば、第一者・加害者、第二者・被害者、第三者・関係のない他人だとする。

その場合、社会において「すべては自己責任だ」という考え方が正しいということになっていると、第三者である「関係のない他人」は、みんな、被害者の責任だと考えるようになるのである。

だって、そうだろ。「自分」の「身の上に起こったこと」は「すべて、なんだろうが」「自分(その人)」の責任なのだからだ。

問題なのは、「自分」という言葉で表現されているものが、自分自身のことなのか、他者自身のことなかというところなのである。

自己責任論というのは、最初から、こういうところに、誤解が生まれる余地があるのである。

言霊主義者の話をしたけど、言霊主義者は、自分が体験したこと関しては、言霊思考抜きで考える傾向がある。

自分が蚊に刺されて、かゆくなったときは、蚊に刺されたからかゆくなったと「言霊思考抜きで」考えてしまうのである。

たとえば、言霊主義者が、夏の竹やぶに入って作業をしなければならない場合、言霊主義者だって、「蚊に刺されたからかゆくなった」と考えるのである。そして、かゆいから、「かゆい」と言ったとする。

その場合は、「蚊に刺されてかゆくなったから、かゆいと言っただけなんだ」とプロセス全体を理解しているのである。出来事の順番は、(一)「蚊に刺される」→(二)「かゆくなる」→(三)「かゆいと言う」という順番になる。そして、この順番に、言霊主義者自身が、疑問を感じないのである。

ところが、ひとごとになると、他人が蚊に刺されたことは関係がないことなので、そのプロセスが、頭に浮かんでこないのである。他人が「かゆい」と言った場合、……言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と決めつけてしまうのである。

相手が、「蚊に刺されたから、蚊に刺されたあと、かゆくなったんだ」と言ったって、言霊主義者は「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と言って認めないのである。この場合の出来事の順番は、(一)「かゆいと言う」→(二)「かゆくなる」という順番なのである。

そして、蚊に刺されたあとに、物理的な反応の結果として、かゆくなったということを無視して、蚊に刺されるまえに、「かゆい」と言ったから、言霊の力によって「かゆくなったのだ」と理解してしまう。

こういう、意見の切り替え……思考回路の切り替えを、普段、意識することなくやっているのである。

言霊主義者は、普段、意識することなく、他人の身の上に起こったことと、自分の身の上に起こったことについて、ちがう反応をしているのである。

そのちがう反応というのは、思考回路自体がちがうということから、しょうじることなのである。他人の身に起こった場合の思考回路と、自分の身に起こった場合の思考回路が、ちがうのである。

これは、言霊主義者によくみられることだけど、普通の人間も、言霊主義者ほどではないしろ、おなじことをやっている。普通の人においても、自分の身に起こったことに関する判断と他人の身に起こったことに関する判断は、相当にちがうと言わなければならない。

自分が体験したことではないので、プロセス進行中の順番を軽視してしまうのである。プロセス進行中の順番というのは、「出来事の順番」のことだ。

自分が体験したことだと、出来事の順番を間違えることはないのだけど、他人のことだと、出来事の順番を間違てしまうのである。

そして、自分が体験したことではないので、『実感がない』のである。

自分が体系しているときは、時系列的な『実感』が、たしかに成り立っているのである。重篤な記憶障碍者でもない限り、ちゃんと、自分の『実感』は思考のなかに残っているのである。

他人の実感は、自分の実感ではないので、他人の実感をそのまま自分の実感として認識し記憶しているわけではない。他人の実感は、自分の思考のなかに、まったくないのだ。

他人が話している内容を理解して、他人の『実感』について想像しているだけなのである。

しかし、この想像は、人によって、だいぶ、『精密さ』がちがうのである。単純な人だと、相手が「蚊に刺されてかゆくなった」と言っても、「かゆいと言うからかゆくなるんだ」と反応してしまうのである。

「かゆくなった」と相手が言っていること以外は、あんまり理解しないのである。「かゆくなった」と言っているから「かゆいと言うからかゆくなる」と思ったことを自動的に返しているだけのような感じになる。

フォーカスされる部分が「(相手が)かゆいと言った」というこということだけなのだ。この場合、他人の話を聴いた人は、ほかの部分にはフォーカスしないのである。

どうしてかというと、自分には関係がない他人の経験なので、他人の経験を構成する要素には、たいして、注意を払わないからだ。

他人の経験を構成する要素というのは、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件によって、構成されている。つまり、経験を構成する出来事の順番や、出来事が発生してしまう条件には、相手が仮に明言したとしても、たいして、注意が向けられないのである。

まあ、言霊主義者ほどひどくはないにしても、普通の人も、そういう傾向が強い。そりゃ、自分が経験したことは、細部までよくわかるけど、他人が経験したことは、他人が言ったことのうち(自分の注意が向くこと)しか、認識しない。

*     *     * 

ともかく、人間は、他人の身にしょうじた出来事について、軽く考えてしまうような生き物なのである。もともと、そのような性格があるので、「すべては自己責任」という言葉は他人を対象とした自己責任論になりやすいのである。

ほんらい、自己責任論というのは、自分を対象とした自己責任論なのだ。

もともとは、自己責任論というのは、アンガーコントロール論なのだ。「すべては自己責任だ」と考えることによって、怒りがわかなくなるという理論なのだ。

アンガーコントロール論としての自己責任論の対象は、もちろん、自分自身だ。他人のことではないのである。

ところが、「すべては自己責任だという考え方は正しい」と思った人は、他人の身の上に発生したことは、すべて他人の責任だと考えるようになってしまうのである。

どうしてかというと、自分の経験したプロセスには実感があるけど、他人の経験したプロセスには、まったく実感がないからだ。

ごく自然な思考の移行なのである。この移行をもたらすものは、もともと他人の経験は自分の経験ではなく、自分にとって実感がわかないという人間の性質によるものなのである。他人の身の上にしょうじたことは、自分の身の上にしょうじたことではなく、実際の出来事を経験したわけではないので、話に聞いたことのうち、自分の印象にのこることしか、考えないのである。 

他人の行動に関係なく、他人の身の上にしょうじたことは、すべてその他人の責任であるという考え方が、世にはびこっていると、よくないことが発生する。人間というのは、他人の身の上に起こったことに関しては、ものすごく荒い理解しかしないので、相手の条件を無視してしまうのである。あるいは、軽視してしまうのである。なので、もともと、他人の身に起こったことは、他人の責任だと思いやすい傾向があるのである。 

2026年1月6日火曜日

●アニメに出てくる「魔法の回復薬」を使ったのとおなじ状態になる■言霊※2026/01/05 2:05

言葉には力があるので、多少は体に影響を与えるとする。

けど、これは、言霊の力ではないのである。断じてちがう。

前も話したけど、言霊主義者というのは、言葉の力を言霊の力だと、思っているのである。そして、これは、誤謬を生み出す。

「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」とする。「元気だという言葉が、自分の体に影響を与えた。だから、言霊には力がある」……と思っているのだ。そこからの推論で、言えば言ったことが「言霊の力によって」現実化されると思うわけだ。

一度、言えば言ったことが「言霊の力によって」現実化されるということが、正しいこととして頭中に成り立つと、「のろい」「ジンクス」系の言霊も、あることになってしまうのである。

ほんとうは、この二者は、峻別しなければならないのである。

しかし、「言葉の力があるということ」が「のろい」「ジンクス系」の「言霊の力」を、証明しているような「感じ」がしてしまうのだ。しかし、これは、間違っている。

もともと、「雨が降ると言ったら、雨が降った」ということからも、「のろい」「ジンクス系」の言霊の力があると、言霊主義者は確信してしまっているところがある。

そして、自分が、「元気だと言ったら」自分が元気になったような気がしたということも、体のしくみではなくて、言霊の力によって、元気になったのだと誤解してしまうのだ。

そして、この両者は、言霊主義者の中で、区別されていないのだけど、ともかくも、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」ということが、「のろい」「ジンクス」系の言霊の力があるということの……根拠になってしまうのだ。

もちろん、これは、間違った推論なのである。ほんとうは、根拠になんかならない。

「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」ということは、「のろい」「ジンクス」系の言霊の力があるということの、根拠にはならないのだ。

どうしてかというと、「元気だ元気だと言ったら、元気になったような気がした」というのは、体がもたらす感覚だからだ。自分の体のことで、自分が申告するだけなら、いかようにでも言えるのだ。

じつは、言霊主義者の場合、自分の体以外の、外部の出来事に関しても、この感覚が成り立っているのである。しかし、ほんとうは、この二者は、区別しなければならないのである。

自分の体(からだ)系のことと、出来事招喚系のことは、区別しなければならないのである。

出来事招喚系の場合は、招喚したあとは、出来事が物理的なプロセスを経て、現実化するのである。それは、外部の出来事であって、本人の気分とか、本人の体調とかとは、ちがうことなのである。

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一度、「言霊の力がある」ということになると、なんでも、言霊の力でくつがえすことができるということになってしまうのである。言霊主義者の頭のなかでそうなるのである。

しかし、言霊主義者のなかにも、現実感覚は成り立っているので、その言霊主義者にとって「あまりにもあたりまえであること」は、言霊感覚の影響を受けないのである。

しかし、自分が、「あたりまえだ」と思っていることに関して、自分が、「言霊の力を無視している」ということが、言霊主義者の頭のなかにのぼることは、めったにないことだ。

一〇〇%詐欺になることをおそれず、現実感覚で言ってしまうと、 言霊主義者の頭のなかにのぼることは、ないと言っていいレベルなのだ。そのくらいに、完璧に無視しているのである。そして、無視しているということも、完璧に無視しているのである。

ひとごとだと、自分が経験したことではないので、現実感覚が成り立っていないことなのである。自分にとって、現実感覚が成り立っていないことに関しては、言霊感覚が成り立ちやすいのである。言霊主義者の場合、言霊感覚が成り立ちやすいのである。

なので、ほかの人のことだと、言霊的な説教をしてしまう。「絶対に正しい」と思っているのだ。しかし、ほかの人の条件を無視することは、非常に失礼なことなのである。

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現実に感じるつかれの段階を一〇〇段階にわけるとする。

きちがいヘビメタにやられたときのつかれは、一〇〇段階の一〇〇段階目なのだ。つかれが一〇〇なのである。一(いち)が、つかれ最小。一〇〇がつかれ最大だ。

自己暗示のような意味で、言葉には力があるので、「元気だ元気だと言ったときに、元気になったような気分がする」とする。自己申告制なので、実際に元気になるとしておこう。

たとえば、「元気だ元気だ」と言うことによって、一(いち)のぶんだけ、実際につかれが減るというモデルについて考えてみよう。

一〇〇つかれているときに「元気だ元気だ」と言えば、一だけ、つかれが減るので、つかれは九九になる。一〇〇段階中の九九番目(に強い)つかれだ。

「元気だ元気だ」と言えば、一だけつかれが減るので、「元気だ元気だ」というと、一〇〇の疲れが九九になる。これだって、モデルとしてわかりやすいように、一だけ減るということにしているだけだ。

ほんとうは、現実的な世界では一〇〇つかれているときに「元気だ元気だ」と言うことによってしょうじるつかれの減退(減少)は、〇・〇〇〇〇〇〇一ぐらいだと思う。

実際には、つかれが消えないのだ。

むしろ、つかれた状態で「元気だ元気だ」と言ったぶんだけ、つかれが増えるような気がする。実際、ヘビメタ騒音でつかれているときに、「元気だ元気だ」と言ったときのつかれ方が並じゃないのである。「どへーーっと」思う。

ヘビメタが鳴っている最中に、「元気だ元気だ」と言ったときは、怒りが爆発して・もっともっと、つかれてしまう。発狂状態になってしまう。これは、そのときの身体に影響を与えるし、そのあとの身体に影響を与える。

たとえば、ヘビメタが鳴り終わって、一〇分経ったとき、「眠ろう」と思っているときの身体に影響を与える。悪い影響を与える。

言霊主義者は、「元気だ元気だ」と言えば、かならず、身体にいい影響を与えると思っているけど、実際には、そうではない。悪い影響を与えるときだってある。

さきのモデルに組み込むとすると、たとえば、九〇から一〇〇までの間で疲れている場合は、「元気だ元気だ」というたびに、〇・一のぶんつかれるということにしておきたい。

まあ、〇・一は控えめな数字だ。ほんとは、一ぐらいつかれるのではないかなと思っている。ともかく、「元気だ元気だ」と言ったときに、つかれが減らない場合だけではなくて、つかれが増えてしまう場合もあるということは、認識しておかなければならない。

言霊主義者は「どんなときでも」「かならず」……「元気だ元気だ」と言えば、元気になると思っている。

実際にはちがう。

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つかれの段階数値モデルについて考えてみたけど、実際には、「元気になるか」「元気にならないか」の二値について論じられているのだ。

言霊に関する議論のなかでは、言霊の効果というのは、二値で語られることが多い。

たとえば、「元気だ元気だと言えば、元気になる」ということについて考えてみよう。「元気になる」場合と、元気にならない場合の二値なのだ。言霊主義者が「元気だ元気だと言えば」「かならず」「元気になる」ということを言い、言霊主義を否定する人が「元気にならないことだってある」ということを言うのだ。

別に段階は関係がないのだ。つまり、つかれの段階は関係がないことになっている。

「どんなにつかれていたって、元気だ元気だと言えば元気になる」と言霊主義者は主張するのである。

ところが、ほんとうは、言霊主義者も、ものすごくつかれたときは、いくら「元気だ元気だ」と言っても、元気にはならないのである。

「つかれがちょっと減ったかもしれない」と思うかもしれないけど、言霊主義者だって、「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったりするのである。

ところが、 「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったりするということは、言霊主義者が「元気だ元気だと言えば元気になる」と主張しているときは、言霊主義者の頭のなかから、完全に、消し去られているのだ。消去されている。

現実世界で、実際に自分が「早く寝よう」と思ったり「ちょっと休憩をしないだめだ」と思ったということは、リコールされないのである。まったく、リコールされない。

「元気になるのだから、元気になる」と言霊主義者は思っている。つかれた状態から、「元気だ元気だ」と言っただけで、元気な状態になるのである。二値だ。

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つかれ一〇一段階モデルというものを考えてみよう。〇段階目は、つかれていない状態なのである。このつかれていない状態が、元気な状態であるか、ただ単につかれていない状態なのかは、問題のあるところなのだけど、とりあえず、このモデルでは、言霊主義者の実感に合わせて?「つかれていない状態」であれば「元気な状態」だとする。

つまり、〇段階目では、元気だとする。 

そうすると、一〇〇段階目のつかれを感じているときも、「元気だ元気だ」と言えば、いきなり、〇段階目の状態になるのである。つまり、元気になるのである。こんなのは、ない。

言霊主義者だって、人間だ。

胸に手を当てて考えれば、自分の感覚とズレているということがわかるだろう。

言霊主義者にとって「元気だ元気だ」と言うことは、「「魔法の回復薬」」なのだ。

アニメに出てくる「魔法の回復薬」とおなじだ。あるいは、魔法の治癒薬なのである。

死にそうになっているのに、「元気だ元気だ」と言うだけで「元気な状態になってしまう」のだ。

これが、幼児的万能感ではなく、なんだ?

言霊主義者は、ほかの人に言うときは、妄想を信じ切った状態で、ものを言っているのである。死にそうな状態でも、「元気だ元気だ」と言えば元気になるのである。どんな病気にかかっていても、「なおる」と言えば、なおるのである。

なんだって、できると言えばできるのである。

幼児的万能感に支配されている状態なのである。

ほかの人のことは、自分のことではないので、妄想理論が大爆発している状態で、人のことについて、とやかく言うのである。

アニメに出てくる「魔法の回復薬」なんてない。

言えば、言っただけで、アニメに出てくる「魔法の回復薬」を使ったのとおなじ状態になるのだ。こういうでたらめなことを、真実だと言っているのが、言霊主義者だ。

しかも、相手が「言ったけど、効果がなかった」と言えば、「言い方が悪いからダメなんだ」と言うのが、言霊主義者だ。

言霊主義者だって、「魔法の回復薬」なんてもっていない。

言霊主義者においても、「元気だ元気だと言うこと」は「魔法の回復薬」じゃない。

ところが、言霊主義者は、「元気だ元気だ」と言うことは、「魔法の回復薬」を飲むのとおなじだと言っているのである。

言霊主義者は「そんなことはない」と反論するかもしれないけど「言えば言ったとおりになる」のだから、おなじなんだよ。「つかれる前の健康な状態になる」と言えば、「つかれる前の健康な状態になる」のである。「傷つく前の健康な状態になる」と言えば、「傷つく前の健康な状態になる」のである。

「魔法の回復薬」とおなじじゃないか。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。