「おカネをもっている人間は、働かなくてもいい」ということについて考えてみよう。「人間は働くべきだ」という文の中には、おカネと条件が含まれていないのだ。
ところが、人々が「人間は働くべきだ」ということを考える場合、だれか対象となる人がもっているおカネの量は重要な条件になっている。
こういう重要な条件が「XはYするべきだ」という言い方から、はぶかれているということは、じつは、重要なことだ。こういう重要な条件が「人間は、Yするべきだ」という言い方から、はぶかれているということは、じつは、重要なことだ。
見えない条件になっているのである。
そして、見えない条件が(実際には)いろいろなところで、効力を発揮しているのに、あたかも、効力を発揮していないように考えられてしまうのだ。
見えない条件と書いたけど、実際には、見えない条件がもたらす、個々人の値だ。この場合は、資産額のちがいという条件がもたらす、個々人の値だ。人によって資産額がちがうのであれば、その値が、個々人の値になる。
実際には、条件ではなくて、条件の値が、効果を発揮している。
けど、条件の値のちがいを、単に条件と言う場合もある。
値と言ったけど、数値化できないこともある。数値化できない(条件がもたらす現実的なちがい)も値ということにする。まあ、たまたま、資産額だから、「値」が数値になるのだけど、そうではない場合のほうが多い。
意味合いのほうが重要なのだ。
値という言葉を使うべきではないんだな。まあ、条件と言っておこうか。
けど、ほんとうは、出来事が実質的な意味合いをもっている。条件によって、おこる(だろう)出来事がかわってくるのである。
たとえば、父親の性格がいいか悪いかということについて考えてみよう。この場合は、父親の性格が「条件」であり、「性格がいい」場合は「性格がいい」という値をもち、「性格が悪い」という場合は「性格が悪い」という値をもつことになる。この場合「いい」と「悪い」の二値しかない。
しかし、性格がいいとか、性格が悪いというのは、実際の出来事から、推測されることなのである。一人の人について、「性格がいい」とか「性格が悪い」という判断は、あまりにも、大雑把すぎる。ここでも、分野や実際の条件がかかわってくる。
ある条件下では、こういういい反応をするけど、ある条件では、こういう悪い反応をするというようなことが、実際にある場合、それが、データになる。
けど、これは、出来事から、(そういう分野の)性格を推測しているにすぎない。
言いたいことは、「値(あたい)」と書いたけど、これは、数値だけではなくて、質を意味しているということだ。
数値である場合は、数値にした質や、数値の質について考えているということになる。資産額は数値だけど、父親の資産額が同一であった場合、(同一資産額の)父親が、カネに関して、おなじ行動をとるわけではない。
だから、数値として切り取った場合は、数値として切り取っただけなんだということになる。数値として切り取ったときに、「質」を犠牲にしている。
これは、しかたがないことだ。試験(テスト)でもおなじことが言える。試験では、はかれる能力しかはかっていない。
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話を元にもどそう。
「人間は働くべきだ」という文の中には、おカネと条件が含まれていないけど、じつは、おカネという条件は、人間の「人間は働くべきだ」という考え方に影響を与えている。
たとえば、定年退職者が「自分は、もう、じゅうぶんに働いたから、働く必要がない」と考えているとき、じつは、「じゅうぶんに働いて、じゅうぶんなカネをためたから、もう働く必要がない」ということも考えているのではないかと思える。
ほんとうは、「じゅうぶんに働いた」ということと「じゅうぶんなおカネがある」ということは、ちがうことだ。だから、別々に語られるべきなのだ。
ところが、「じゅうぶんに働いた」ということが「だから、自分には、じゅうぶんな資産がある」ということを意味していることがある。
過去においてじゅうぶんに働いても、今現在、じゅうぶんなカネがないなら……働かなければならないと考える場合がある。
この場合は、「人間は働くべき」だから「自分は働く(べきだ)」と考えているわけではなくて、「人間は働くべきかどうか」に関係なく、自分は、カネがないから、働かなければならないと考えているわけだ。
過去において、じゅうぶんに働いても、おカネがない場合はある。さらに、借金がある場合だってある。
だから、「じゅうぶんに働いたから、もう、働かなくてもいい」と言う場合にも、じつは、背後に「働いた結果、じゅうぶんにカネがあるから、もう、働かなくてもいい」という意味がかくれている場合がある。
本人が、どっちの意味で「じゅうぶんに働いたから、もう、働かなくてもいい」と言っているのかは、わからない。本人も、区別をしていないかもしれない。
いずれにせよ、人には「人間は働くべきだ」と言っているのだから、「自分は、もう、働かなくてもいい」と言うことは、避けるべきだ。自分が人間ではないのであれば、別だが、人間である場合は、どちらかに絞って言うべきなのだ。
そして、両方ともいう場合は、自分の言っていることが相互に矛盾しているということについて、考えるべきだ。
矛盾したことを言って、ぜんぜん認めない人がいる。
「人間は働くべきだ」と言っている場合も、人間という集合に入る人間は、すべて働くべきだと言っているということに気がつくべきだ。そういうところに、あいまいな部分があり、あいまいな部分が、さまざまな問題を引き起こしている。
人間という範囲を考えるなら、「人間は働くべきだ」という文は、一〇〇%構文の文なのだ。だから、他人に言う場合は、今まで説明したような問題がしょうじる。
「自分は人間だけど、自分だけは例外だ」と考えている時点で、矛盾を抱えていることになる。
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ほかの人に「人間は働くべきだ」と言っているときは、倫理に関係することについて語っているのである。ところが、「自分がおカネを貯めたら、退職する」ということになっている場合は、「おカネの額」の問題になっているのである。
ようするに、資産額の問題になっているのである。
「じゅうぶんに働いたから、もう働かなくていい」というのは、おカネをためれば、倫理の問題なんて関係なく、働かなくてもいいということになってしまうのである。
人にものを言うときは、倫理の問題として語って、自分がいざ退職するだんになると、倫理の問題は関係がなくなってしまうのである。
退職者が、自分は無職なのに、他人に「人間は働くべきだ」というのは、よくないことだ。自分というのは、人間なのだ。言っていることが、矛盾している。
倫理の問題なのか資産額の問題なのか、自分のなかではっきりさせたほうがいい。
そして、「人間は働くべきだ」と思っているので、自分は、ずっと生きているあいだは働く……つもりだという人は、ほかの人に「人間は働くべきだ」と言わずに、そうすればいいのである。
けど、他人は関係がない。
自分が退職したあとに、「人間は働くべきだ」と他人に言うのは、よくない。じつは、自分が働いているときも、他人に対して「人間は働くべきだ」と言うべきではない。どうしてかというと、他人に言っているときは……倫理の問題にすりかえているからだ。
ほんとうは、金額の問題なのである。
資産額の問題なのである。
ところが、倫理の問題にすり替えている。
人間は働くべきだと言うことによって……『他人が働かないのは、けしからん』と思っているということを、表明しているのである。
ところが、じつは、資産額の問題なのだ。
こういうところで、本人のことなのに、本人がよくわかっていないことを言うのはよくない。問題のすりかえがある。
自分が、倫理的な問題を考えて、『人間は働くべきだ』と思っているのであれば、死ぬまでずっと、本人(自分)が働けばいいだけだ。.
自分が……『人間は働くべきだ』という倫理観をもっているので、自分は!死ぬまで働き続ける……。それでいいじゃないか。自分の倫理観に従って生きるということは、たいせつなことだ。
他人のことは、関係がないはずだ。
他人は『人間は働くべきだ』と考えていないかもしれない。
他人は『資産がじゅうぶんにあれば、働かなくてもいい』と考えているかもしれない。
他人は、『じゅうぶんに働いたなら、働かなくてもいい』と考えているかもしれない。
他人が「じゅうぶんに働いたかどうか」ということを決めるのであれば、じつは、勤続年数は関係がない。働いた年数は関係がない。他人(本人)が『じゅうぶんだ』と思えば、じゅうぶんなのである。