なんとか、起きた。ちょっとだけ眠った。これで、どうにかなるだろう。けど、体がだるい。腹の調子もよくない。これで、だるいから横になろうと思って、横になったら、眠ってしまうかもしれない。今度は、眠ってしまうかもしれないことを、心配することになるとは……。予定の時間に行かなければないからなぁ……。キャンセルは、やばい。『ドタキャン』になる。
ヘビメタ騒音が鳴っているあいだ、くるしかった。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあとも、くるしかった。ヘビメタ騒音で体内リズムが崩れていく。ヘビメタ騒音で睡眠リズムが崩壊する。「くるしい心配」がどうしても、しょうじる。しかたがないことだ。
実際にヘビメタ騒音……きちがい家族による常識外れの騒音を経験したことがない人が「そんなのは、関係がない」と言う。いやーー。関係、あるんだよ。そして、ヘビメタ騒音でだるければ、それは、俺の自己責任だということになる。(どれだけ騒音が鳴っていたって)(どれだけきちがい的な家族が、きちがい的な騒音を鳴らしていたって)……そんなのは、健康管理(体調管理)ができないエイリが悪いということになる。そんなのは、健康管理(体調管理)ができないエイリがたるんでいるんだということになる。
こういうことを言うやつらが、「当たり前のことを言った」と思っている。いやーー。現実を無視した、無慈悲な発言だよ。俺は……あくまでも、俺は……この発言をきちがい発言だと思うよ。こんなことを言って、自分は社会人として立派だと思っている。こんなことを言って自分は人間として立派だと思っている。
こいつだって、きちがいヘビメタ騒音ではなくて、こいつの一番きらいな音楽が鳴っていれば、そうなる。横の部屋にいる家族が、常識的な人が考えられないような感覚で、鳴らしていれば、健康管理ができなくなる。ところが、こいつは、きちがい相手でも、自分が相手を説得できると思っているのだ。こいつらのほうが、あまいんだよ。こいつらが、現状を理解していないのである。こいつらが、きちがい兄貴の性格ときちがい兄貴の感覚を理解していないだけなのである。そして、こいつらのまわりには、きちがい兄貴のような感覚で、きちがい的な音をずっと鳴らし続ける人がいないから、実際に被害を受けていないだけなのである。実際に被害を受けていないから「健康管理ができるつもりでいるだけ」なのである。「ほかの人を説得して、しずかにさせることができると思っているだけ」なのである。
日本の騒音に関する法律は、異常。条例でしかない。そして、ぼくは、未成年だった。訴える家族が、当時4年間は、未成年なのである。そして、実際に、訴えるとなると、きちがい親父がかかわってしまうのである。きちがい親父がかかわって、うまくいった話なんてないんだよ。
これも、よその人は「やってみないとわからない」と言う。親父に言ってみないとわからないという意味だ。さんざん、言ったよ。きちがい親父が、きちがい的な反応をして終わりだったよ。何回やっても、きちがい的な反応が返ってきただけだった。親父からきちがい的な反応が返ってきただけだった。おまえら……こういうことを言うやつが、うちの親父の感覚とうちの兄貴の感覚を理解していないだけなのである。
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書くべきではないと思ったけど……。ズレている話だと思うかもしれないけど……。自分がドタキャンをして、相手がおこったとする。この場合、相手がおこるのは、相手の問題だと切り分けることができるのだ。自我の基準なんて、そんなものだ。かりに、自分がドタキャンをしたときは、相手の問題だと思う人がいたとする。この人をAさんだとする。そして、Aさんが管理する立場だったとき、Bさんがドタキャンをしたとする。Aさんは、Bさんがドタキャンをしたのは、Bさんの問題だと思うことができるのだ。そして、Bさんに腹を立てることができる。ドタキャンをしたBさんが問題だと思うことができるのだ。Aさんの怒りは、Aさんにとってあたりまえの怒りなのである。ようするに、自分がドタキャンをした場合は、相手がおこるのは相手の問題だと切り分けて、相手がドタキャンをした場合は、自分がおこるのは当然だと思う人も、いる。「相手の問題だ」と問題を切り分ければそれでいいということには、ならないのである。「ドタキャンをしてはいけない」というのは、自分のなかの基準なのである。『の』の重複をさけずに書けば、「自分のなか」の「基準のひとつ」なのだ。そういう基準が複数集まって「自我を構成している」のである。基準の束が、自我なのである。
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