言霊主義者だって、なまの感情がある。なまの感情は、それまでの「解釈」の体系と、実際の出来事によって、大半は、決まってしまうのである。
実際の出来事は、記憶に残り、解釈の体系にある程度の影響を与える。ものすごく影響を与えるときだってある。
たとえば、言霊主義者が、言霊理論を否定されたときは、怒りのような感情がわくのである。不愉快だと思うのである。言霊主義者は、言霊理論が絶対に正しいと思っているので、言霊理論を否定されると、不愉快な感情がわくのである。
不快になるのである。
ちょっとだけ説明しておくと、「言霊理論が絶対に正しい」と思っているということが、「解釈の体系」の一部を形成しているのである。
だから、自分が絶対に正しいと思っていた言霊理論を否定されたときは「うれしいうれしい」と言っても、なかなか、うれしくならないのである。
「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。言葉に言霊の力が宿っていて、その力が絶対的な力なのであれば、自分が絶対に正しいと思っていた言霊理論を否定されたときも、「うれしいうれしい」と言うだけで、ほんとうにうれしくなるはずなのだ。
「楽しい楽しい」と言うだけで、直前の出来事にまったく関係なく「楽しくなるはず」なのだ。
ところが、楽しくならないのである。
こういうことを、言霊主義者は、無視している。
おこっているときに、「うれしい」と言っても、なかなかうれしくならないという事実を、無視しているのである。おこっているときに、「楽しい」と言っても、なかなか、楽しくならないという事実を、無視しているのである。
「ぬけぬけ」だから、気がつかないだけなのだ。
自分の「なまの感情」を、無視してしまう。
出来事に対応したなまの感情があるのに、それを、無視してしまうのである。
言霊との関連において考えることができないのである。自分の「なまの感情」と「言霊」の関係について、よく考えることができないのである。言霊主義者は……。
* * *
逆にたとえば、なにか、とてつもなくうれしいと感じることが起こったとする。
うれしいと思っているときは、「腹が立つ」と言っても、なかなか、腹が立たないのである。うれしいと思っているときは「くやしい」と言っても、なかなか、くやしくならないのである。
どうしてかというと、実際の出来事によって、うれしく感じているからだ。
この場合も、時間的な接近は、ある程度、影響を与える。直前の出来事が、そのときの感情を(だいたいのレベルで)決定しているのである。
だから、直前の出来事が発生して、自分がなんらかのことを感じてしまっている場合は、「言葉によって、書き換えよう」としても、なかなか、書き換えることができないのである。
実際は、こっちが正しい。
言霊理論に従えば、直前の出来事に関係なく、いくらでも、自分の感情を書き換えることができるはずなのだ。
なにが起こったって、自分が「楽しい」と言えば、楽しくなるのである。なにが起こったって、自分が「くやしい」と言えば、くやしくなるのである。
ところが、そんなことにはならない。自分の「なまの感情」が、そのときの感情なのである。
「なまの感情」が発生しているときは、それなりの理由があるのである。それなりの理由を無視して、「言えば」言った通りに(自分が)感じるわけではないのである。
ところが、そういう日常的な出来事を無視して「言えば、言った通りの感情になる」と思っているのが言霊主義者なのである。
言えば、言った通りの感情になるのだから、言えばよいのである。
なにが起こったって、「楽しい」と言えば楽しくなるはずなのである。
ところが、実際には、どんなに頑固な言霊主義者だって、そんな生活はしていない。