2026年6月21日日曜日

●「うまくいかないのは、あなたのやり方が悪いからだ」■社会※2026/06/20 1:37

くるしい人が多ければ多いほど、「儀式に依存する人たち」が増えていく。

たとえば、一〇〇人の社会を考えてみよう。条件が悪くて悪くて、九〇%の人がくるしんでいる社会だ。九〇%の人は、くるしくてくるしくてしかたがないので、なんとか、このくるしさから抜け出したいと思うようになる。

そのとき、条件に関係なく、「これこれをすれば幸福になる」という方法について、述べている人がいたらどう思うだろうか。

なんとかして、教えてほしいと思うだろう。

「Xをすれば幸福になる」「Xをすれば運があがる」「Xをすれば、お金持ちになれる」……。

そう、Xをすればよいのだ。

そして、Xは、だれもができるような簡単なことなのだ。その簡単なことで、自分がくるしさから、解放される。こんないいことはない。……こんないいことはないと思うだろう。

しかし、これが、地獄の入り口なのだ。

実際には条件が悪いから、くるしくなることが発生している。実際には条件が悪いから、つらくてつらくして、しかたがない状態で暮らすことになる。

Xすることは、たいていの場合、悪い条件に影響を与えないのである。あるいは、Xをすること自体が、くるしい状態をつくりだしてしまうことになる。これは、リソースの問題だ。体力というリソース。時間というリソース。

くるしい状態で暮らしている人は、限界状態で暮らしているので、体力も時間もないのである。

Xをすることで、体力か時間が奪われるのであれば、あるいは、その両方が奪われるのであれば、それは、マイナスなのである。そして、条件が悪いから、うまくいかないのに、条件を無視した人たちが、ダメ出しをしてくる。

「うまくいかないのは、あなたのやり方が悪いからだ」と、その人たちは、言い出す。

もう、決まっているんだよ。

Xをすることで、くるしさから逃れることができるというのが、間違いなのである。

Xをすること自体にそんな効果はない。

まあ、努力というのは、短期的に見れば、いい影響を与える場合がある。行動と欲しいものが一致しているからだ。儀式系のことだと、行動と欲しいものが一致していない。

だから、無駄に、行動の決まりが増えていくだけになる。儀式の方法が複雑になっていくのだ。

儀式のやり方がへたくそだから、うまくいかないということになると、儀式のやり方が複雑になっていく。

しかし、儀式のやり方が複雑になっても、もともとの不幸をもたらす条件がかわらないと、時間経過とともに、不幸な出来事の回数か増えるのである。当然、消耗する。

ほんとうは、一〇〇%の人が、儀式をしなくても、しあわせなほうがいいのだ。

たとえば、社会の一〇〇%の人がしあわせなら……すでに幸福なら……幸福になる方法は、はやらないのである。

不幸な人が多いから、幸福になる方法がはやるのである。

そして、「Xをすれば幸福になる」というような方法は、条件を無視しているので、でたらめな方法なのである。

Xをすれば幸福になるというのは、がせねたなんだよ。

不幸な人のうち、どうしても、幸福になりたいと思う人の割合を九〇%だとしておこう。その場合、社会の九〇%が不幸な人だと、八一%の人が、幸福になる方法に興味をしめすということになる。

いっぽう、社会の一〇%が不幸な人だと、九%の人が幸福になる方法に興味をしめすということになる。幸福になりたいと思う人の割合が一定なら、幸福になる方法に興味をしめす人が多い社会のほうが、幸福になる方法に興味をしめす人が少ない社会よりも、悪い社会だというとができる。

まあ、最初の設定に、結果が含まれているような、たとえ話なのだけど……言いたいことは、幸福になる方法がはやっている社会というのは、悪い社会だということだ。

それだけ、不幸な人が多いのである。

つまり、条件が悪い人のほうが、条件がいい人よりも、多いのである。だからこそ、不幸からだ出したくて、幸福になる方法を知りたくなる。 

ところが、短文で語られる幸福になる方法というのは、一〇〇%構文で語られるという特徴がある。最初から間違っている。

ところが、教えているほうも、教わるほうも、『区別』で書いた「区別」がついていないのである。だから、誤解が誤解を呼ぶことになる。

しかし、この誤解こそが、じつは、真理であるような雰囲気を醸し出している。しかし、誤解をしているだけなのだ。

もともと、でたらめな方法なのだけど、なんとなく、それらしく聞こえるのだ。そうすると、当然、落ちこぼれる人が出てくるわけ。

つまり、やったけど、効果がなかったという人たちが出てくるわけ。

ちなみに、やったら効果があったと思っている人は、これまた、誤解をしているだけなのである。「明日は雨が降ると言ったら、実際に次の日、雨が降ったので、言霊理論は正しい」と思っているだけなのだ。ほんとうは、間違った推論をしているだけだ。

ともかく、「効果があった」と言う人たちが出てくる。

この人たちも「言ったあと」と「言ったから」の区別ができていないので、そうなる。

ともかく、やったけどダメだった人たちが、大量に発生する。

だって、ほんとうは「おっぺけぺと言えば、なんでも願いがかなう」というぐらいには、でたらめだからだ。

そうなると、もう、これは、マニュアルで決まっているように、「やり方がへたくそなんだ」と言われることになる。

そうすると、これは、うまくいかなかった人を(間違った理論で)ディスっているだけなのに、やっている本人たちは、ものすごく、いいことをしているつもりになってしまうのである。

そりゃ、「改善の道」をしめしてやるつもりだからな。

そのあと、「うまく言った人」と「うまくいかない人」にわかれて、うまくいかない人は、「あれがたりない」「これがたりない」と言われることになる。

これも、親切にしてやっているつもりなのだ。

これも、「性格が悪い」「心構えができていない」「波動が低い」というよな悪口なのだけど、その人たちには、相手を見下して、悪口を言っているつもりがないのだ。

こういうことが、重層的に繰り返されてしまう。 

なので、こういうことがはやっている社会は、こういうことがはやっていない社会よりも、より悪い社会なのである。

●これが、人を隷属させる方法なのである■社会※2026/06/20 1:37

条件を無視したまま、細かい作法にシフトしていくという問題がある。

不幸な人が不幸なのは、それぞれ、不幸になるような現実的な条件があるからなのである。条件が、出来事の質や回数を決定してしまう。

たとえば、悪い親と一緒に住んでいる人は、悪いことが起きやすくなるのである。

ところが、そういう条件を無視して、「運をよくしようとする」と、作業の深度が深くなるのである。

つまり、「運をよくするための儀式」がより、複雑になるのである。

しかし、どれだけ、儀式が複雑になっても、悪い条件がかわらないと、悪い出来事の質や回数がかわらないので、不幸な思いをすることになるのである。

たとえば、神社にお参りをするとする。神社にお参りをすると「運があがる」ということにしておこう。

そうすると、神社にお参りしても、条件が悪い人は、なかなか幸福にならない。たまたま、起こることに期待しなければならなくなる。

ところが、条件が悪いので、よいことが起こらず、悪いことばかりが起こるというとになってしまうのである。

条件が悪いからなのである。

ちゃんと、「悪い家族」という原因があるのである。運とかそういうことではなくて、ちゃんと、物理的な身体をもった、「悪い家族」という原因がある。

ところが、神社にお参りをしても、運があがらなかったということになると、お参りのやり方が悪いのではないかということになってしまうのである。

これが、人を隷属させる方法なのである。

このやり方は、「言霊」でも「思霊」でも「引き寄せ」でもおなじなのである。

言霊の場合は、「言い方が悪いから効果がない(言ったことが現実化しない)」ということになる。思霊の場合は、「思い方が悪いから効果がない(思ったことが現実化しない)」ということになる。

引き寄せの場合は、「引き寄せ方法を、うまく、実行していないから引き寄せられない」ということになる。祈り方とおなじで、儀式の問題になる。儀式の細かさが深くなるのである。

言霊において「言うこと」は儀式のようなものなのである。

「うまく言えば現実化するけど、うまく言えないと現実化しない」ということになるので、「言い方」について、作法の深度が深くなるのである。

しかし、言い方を工夫しても、どれだけ、うまく言うようにしても、もともとの理論が、でたらめなので、言い方を工夫したり、うまく言うようにしても、「現実化の頻度」とは関係がないのである。

この、関係がないところで、ダメ出しをして、相手を従属させるという「きたない手」を使っているところが多いのだ。

最初から、ダメな方法なのである。

最初から効果がない方法なので、効果がないのである。

「いいことが起こる」言ったあとに、なにがしかのいいことが起こったとする。そうすると、言ったから、いいことが起こったのだと考えるわけだ。

しかし、言霊はないので、言霊の力によって、そのいいことが起こったわけではないのだ。

しくみは、「雨が降ると言ったあとに、雨が降った」ということとおなじだ。「言ったあと」と「言ったから」の混同があるのである。

たとえば、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こったとする。これは、「いいことが起こる」と祈ったあと、いいことが起こっただけだ。「あと」なのである。

それを、「祈ったから」いいことが起こったのだと(勝手に)解釈してしまうのだ。そうすると、「祈りのパワーは絶大だ」ということになるのである。

そのときの祈り方や、そのときに行った神社だと、「うまくいく」と思うわけだ。

しかし、条件をぬかせば、ランダムに起こっていることなのである。あるいは、条件によって起こる頻度が決まっているものなのである。

たとえば、家では、きちがい的な家族にたたられるけど、学校で、いい友達ができたとする。

友達ができたことで、家族の基本的な問題は解決しないけど、学校でいい友達と交流したときに、いい思い出ができたとする。

これは、いいことだ。

その場合、お祈りをしていなければ……「お祈りをしたから、いいことがあった」とは思わない。お祈りをしていないのだからそうなる。

ところが、お祈りをしたあと、学校でいい友達と出会い、いい思い出ができた場合は、「お祈りをしたあといいことが起こった」と考えるのではなくて、「お祈りをしたからいいことが起こった」と考えることが可能になる。

けど、その「いいこと」というのは、一番悪い条件からはずれたときに起こっていることなのである。

条件は様々だから、一番悪い条件にたたられている人も、どこか、その一番悪い条件が条件として機能しない場所では、いいことが起こる場合がある。

しかし、実際には、家族の問題というのは、学校にいるときにも、影響を与える。

特に、騒音系の問題だと、学校にいる時間も、家にいるときのように、影響を与える。睡眠が削られ、体力がなくなり、学校でのさまざまな行動に影響を与えるからだ。

だから、基本的には、「悪い家族」という条件が、ほかのことにも影響を与えている。

けど、影響が低い場面では、たまたま、いいことが起こることもある。

それは、お祈りとは関係なく、起こるのである。

ともかく、条件というのは、ひとつじゃない。

もう、複雑に絡み合っているのである。

だから、「たまたま」いいことが起こることもある。

しかし、条件が悪い人というのは、いろいろなところで、条件が悪いのである。

まあ、それを改善したいと思うのは当然だ。

だから、安直な方法を求めるのである。

たとえば、「言うこと」「思うこと」「お祈りすること」「お祈り以外の儀式をすること」だ。その方法が効くとか聞かないというのは、じつは、雨が降ると言ったあと、雨が降る確率とおなじようなもので、方法に関係なく、ほかのことによって、出来事の質が決まってしまう。

「雨が降る」と、どれだけ「いい言い方」で言っても、言うことが……雨が降る確率に影響を与えないのだから、「いい言い方」をどれだけ研究して言っても、無駄なのだ。

生きにくい人が多ければ多いほど、この「安直な解決産業」がうるおうようになっている。

条件が厳しければ厳しいほど、この「誤解の上に成り立つカルト産業」がうるおうようになっている。

*     *     *

全員が、悪意を持って、隷属させようとしているとは、言わない。実際そうではないからだ。「Xをすれば運があがる」「Xをすれば幸福になる」と言っている人たちが、すべて、悪意を持って、人を隷属させようとしているわけではないのだ。それは、ちがう。

しかし、社会の構造を考えると……。意図せず、圧力を加えているということになる。まあ、善意なのはわかるし、『区別』に書いたことがわからないのだから「妄信」することはある。

社会の全体像なんて、見えないか、積極的に無視しているのだから、善意で、「本当にいい方法を教えてあげるんだ」と思っていたとしても、不思議ではない。

それに、どっち側に回るかと言うことを除いて考えると、人間は、不安な生き物なのである。そして、なにか神仏に、助けを求めたくなる生き物なのである。

だから、条件が厳しければ厳しいほど、自分にもできそうな「安直な解決方法」を求めることになる。この圧力が、ものすごい圧力なのである。

なら、どうして、このものすごい圧力がしょうじるかというと、厳然とした……でっかいでっかい、格差があるからなのだ。猛烈な格差がある。条件の格差と言ってもいいのだけど、実際に、どういう家に生まれたかで、厳然とした格差が生じてしまう。

緩やかな格差ではなくて、猛烈に激しい格差なのである。猛烈に激しい格差が現前して、生まれたと同時に、その格差のただなかに、なげこまれてしまう。

だから、条件が悪い人は、悪い出来事がたくさん発生してしまうのである。条件が悪いと一口に言っても、悪さの程度に、差があるのである。条件と言っても、無数の条件があるのである。

だから、条件が悪い人のなかにも、激しい格差があるということになる。

まあ、ともかく、「社会構造を考えよう」ということになる。 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。