2025年10月15日水曜日

●ニコニコしている人を信用するだろうか■ニコニコ※2025/10/13 3:42

たとえば、CさんとDさんがいたとする。Cさんは投資詐欺師で、Dさんは2000万の退職金をもらって退職した定年退職者だ。Cさんが、ニコニコしていたとする。Dさんは、友人の誘いで、Cさんにあったとする。Cさんが、いつもニコニコしてさわやかな人なので、Dさんは、800万円、Cさんがいう金融商品に投資をした。最初のうちは、分配金のようなものが、振り込まれていたのだけど、6カ月目に、振り込まれなくなった。不審に思ったDさんが、連絡をとろうとしたけど、Cさんには連絡をとれなかった。Dさんは警察に被害届を出したけど、警察官は「取り戻すのは非常にむずかしいと思う」と言った。実際に、Cさんのおカネは、かえってくることがなかった……とする。この場合、Cさんはニコニコしていたのである。たしかに、Cさんは「ニコニコしたので、いいことがあった」わけだ。Dさんは、ニコニコしている人は、信頼できると思って投資をしたのだけど、けっきょく、だまされることになった。ニコニコ理論では、ニコニコしている人がいい人だという前提が(なんとなく)成り立っている。しかし、ニコニコしている人が、悪い人だったら、どうか? まあ、悪い人とは言わなくても、悪い意図があってニコニコしていた人だったとしたら、どうなのかという問題がある。Dさんは、いつもニコニコしているCさんを信じて、投資をした。これは、「つくり笑顔でも」「ニコニコしていれば、人に言い印象をあたえることができる確率があがる」ということを支持しているようにも見える。しかし、いつも、かならず、人に言いしんょうをあたえられるかどうかはわからないのである。あくまでも、「おこっているひと」よりも「つくり笑顔でも、ニコニコしていた」ほうが、信用を得やすい傾向にあるのではないかということが言えるだけだ。これも、たぶん調べれば、たしかにそういう傾向があるということがわかると思う。しかし、そこで問題になるのは、「意図」なのである。ニコニコしている側の「意図」だ。どういう「意図」でニコニコしているのかということが、問題になる。けど、ニコニコ教の人は、「ニコニコしているといいことがある」と思ってニコニコしていること以外のことを考えない。人をだますつもりで、ニコニコしている人のことを、無視してしまうのである。現実世界では、悪意があって、ニコニコしている人もいるということを、無視してはいけない。どうしてかというと、「ニコニコしていると、いいことがある」という話自体が、現実世界の話だからだ。現実世界で起こることについて、話をしているからだ。

Dさんは、投資詐欺にひっかかったあと、以前とおなじように、ニコニコしている人を信用するだろうか。ここでは、Dさんは、以前のようには、ニコニコしている人を信用しないようになったということにしておく。その場合、Dさんはニコニコしている人に警戒心を抱くようになる。だから、ニコニコしている人が、つねに、一〇〇%、人から行為を持たられるという前提は成り立たなくなる。ニコニコしている人は、ほかの人に安心感を与えるから、そのあとの交流がスムーズになるということが、語られたはずだ。交流がスムーズになるといいことが起こりやすいのである。ニコニコ理論にしたがえば、一〇〇%の確率でいいことが起こることになのである。一〇〇%の確率でいいことが起こるということの土台として、人(というものは)ニコニコしている人に好感をもつという前提が成り立っていた。けど、いつもその前提が成り立っているとは、限らない。

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投資詐欺師のCさんは、人はニコニコしている人を信頼しやすいという傾向を利用したわけだ。これはあくまでも、傾向だ。100%、つねに、成り立っているわけではないのである。実際、Dさんは、投資詐欺に引っかかったあと、ニコニコしている人を信頼できなくなっている。ようするに、確率の問題だということだ。ところが、「人は、ニコニコしている人を信頼する」と言ってしまった場合には、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」ということになってしまう。「人は、ニコニコしている人を信頼する」という文は、「人は、ニコニコしている人を100%の確率で信頼する」という文と意味的に等価になってしまうのである。「人は、ニコニコしている人を信頼する」のだから、「ニコニコしている人を信頼しない人」はいないことになっているのである。ニコニコしている人を信頼しない人は、この世に存在しないという前提が、成り立ってしまう。

 

2025年10月13日月曜日

●「ニコニコしていたのに、悪いことが起こった」■ニコニコ※2025/10/13 2:51

もう、一度、AさんとBさんに登場してもらおう。Aさんは、無職に偏見がある人だ。そして、Bさんは無職である人だ。

Bさんがニコニコしていても、Aさんには、無職に対する偏見があるので、「なに、笑ってんだ? 自分の立場がわかっているのかぁ」と毒づくことだってある。

その場合、Bさんは「ニコニコしていたのに、不愉快なことを言われた」ということになる。Bさんは、Bさんで、Aさんにはわからない、理由があって、無職になっているのかもしれないのである。

しかし、Aさんが、その理由を正当な理由だと認めなければ……ようするに、理由として認めなければ、Aさんにとっては、Bさんは、理由がないのに、無職のままの人だということになってしまうのである。

そして、Bさんが言った理由について、納得がいかなければ、Aさんは「そんなのは理由にならない」とか「あまえたことを言うな」と言うのである。

これも、Bさんにとっては、不愉快なことだ。

まさしく、「ニコニコしていたのに、不愉快なことが起こった」のである。それならば、「ニコニコしていれば、いいことがある」とは言えないということになる。

これも、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」ということを言っているのであり、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」ということ言っているのではないということに注意しなければならないのである。

ところが、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っている人は、法則性について述べているときは、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ってしまうのである。

そして、「ニコニコしていれば、いいことがある」と思いついた根拠のほうは……根拠になる体験のほうは、自分がニコニコしていたから、いいことがあったという体験なのだ。

これは、つまり、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っていることになる。

だから、そういうことを、使い分けているのだけど、使い分けているつもりが「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っている人にはないのである。

ようするに、区別なく理解しているので、そのときに応じて、都合がいいほうが選ばれて「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているだけなのである。

だから、法則性について語るときは、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているわけではなくて、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているわけなのだけど、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で、「ニコニコしていれば、いいことがある」と言っているということに、本人が気がついていないのだ。

これは、やっかいなことだ。

手短に言うと、ニコニコ教だけではなくて、言霊主義にも、おなじことが成り立っている。言霊主義者に関しては、以前、述べたことがあるので、ここでは、ほとんど省略する。

言霊主義の問題について言っておくと、ともかく、言霊主義者も、自分で言っていて、自分が言っている言葉の意味が、よくわかっていないというところがあるので、問題がしょうじる。その無自覚性は、人を傷つけるのである。

言霊主義から、ニコニコ教に話をもどす。

ニコニコ教徒は、「ニコニコしたのに、悪いことが起こった」ということを、認めない傾向がある。ようするに、「なんかのまちがいで、そうなっただけだ」と軽く流してまうのである。

そして、法則性について語っているときは、たしかに、「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ったのだけど、相手から「ニコニコしたのに、悪いことが起こった」ということ言われたときは、「ニコニコしていれば、いいことがある場合がある」という意味で「ニコニコしていれば、いいことがある」と言ったというような感覚におちいってしまうのだ。

自分の場合は、「ニコニコしていたから、いいことがあった」から、「ニコニコしていれば、いいことがある」ということは正しいと思っているのだ。

ようするに、自分の場合は、「ニコニコしていたから、いいことがあった」から「ニコニコしていれば、100%の確率でいいことがある」ということは正しいと思ってしまうのだ。ここに、理論的な誤謬があるのだけど、本人が、理論的な誤謬に気がつかない。

ニコニコしていたのに、悪いことが起こったということは、なにかの手違いだから、問題がないと思ってしまうのだ。この場合も、相手がうまくニコニコできなかっただけだというような問題になってしまうのである。

ともかく、ニコニコ教祖は「そんなことはない」と言って「ニコニコしていたのに、悪いことが起こった」ということを認めないのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。